牛乳を運ぶ シュペルヴィエルと宮沢賢治

古典新訳文庫創刊編集長の駒井稔さんが「今、息をしている言葉で」(而立書房)で、刊行時の経緯を書いていらしたので、「海に住む少女」刊行に到るまでの覚書を今のうちに。


 2005年の冬、古典新訳文庫の創刊に先立ち、編集長の駒井さんから「何か訳したいものはありませんか」とお声をかけていただいたとき、シュペルヴィエルをやりたいと思いました。しかし、創刊ラインナップの目玉となるものをという条件がある以上、ちょっと難しいのでは、とも思いました。ここは何とかシュペルヴィエルの素晴らしさを簡潔にプレゼンしなくては、ということで、思いついたのが、「文豪ではありません。詩人です。童話のような作品も多いけれど、子供向けというわけではなくて、フランス版宮沢賢治だと思ってください!」というセールストークでした。
 打ち合わせの日、案の上、私がシュペルヴィエルの名をあげても駒井さんはぴんとこないご様子でした。ところが、同席していた編集者Kさんがすかさず、「シュペルヴィエルいいですね」と言ってくださったのです。K氏の応援を受け、「海に住む少女」は創刊第3弾のラインナップに入り、翌年、2006年11月に刊行されました。「フランス版宮沢賢治」のキャッチフレーズは帯文にも使われ、書評などにも引用されることとなりました。
 何かを何かに譬えることは、ある意味、その個性を否定することにもなりかねません。シュペルヴィエルシュペルヴィエルであり、宮沢賢治に似ている部分もあれば、当然、まったく似ていない部分もあるのです(これについては「ひとさらい」のあとがきでも書きました)。
 「似ている」は「同じ」ではないことをふまえたうえで、それでも何かこの二人に運命的な関係を感じてしまうのは、たとえばこんな小さなエピソードのことなのです。
 シュペルヴィエルの「牛乳の椀」は、病気の母のために牛乳を運ぶ青年の物語です。「銀河鉄道の夜」の冒頭にもジョバンニが牛乳を買いに行く場面があります。シュペルヴィエルの「飼い葉おけ」の牛の姿は、「よだかの星」を思わせるのです。妙に分別臭く、饒舌な動物たちの姿もちょっと似ています。1884年生まれのフランス(シュペルヴィエルウルグアイの人でもあるのですが)と1896年生まれのイーハトーブの詩人が、もしや宇宙を通して交信していたのでは、と想像したくなってしまうのです。