過剰なる母 寺山修司とロマン・ガリ  

 

 5月になると、寺山修司を読み返します。5月4日は命日だから。そして、『われに五月を』の印象があまりにも強いから。歌集「われに五月を」のなかで、「二十才 僕は五月に誕生した」としていますが、本当は12月生まれ。別の作品(1)では「おいらの故郷は汽車の中 汽車で生まれた」としていますが、これも嘘。

 ところで、もうひとり、自分は「汽車のなかで生まれた」と嘯く作家が海の向こうに存在しました。ロマン・ガリです。ガリもまた、「ロシアとポーランドの国境のとある駅で停車中に汽車のなかで生まれた」と言っていたそうです(2)。これも、実は嘘。

 でも、嘘とはいえ、列車生まれを自称するこの二人、ほかにも共通点があります。まずは、父の不在と、それを埋めるべく描かれた虚虚実実の自伝的作品群。そして、その不在を補おうと張り切り過ぎてしまったかのような「過剰な母」の存在。

 寺山修司は、戯曲「身毒丸」をはじめ、作品のなかで母子相姦のイメージを繰り返し、実母のはつさんに理由を問われると、「悪い母であれ、良い母であれ、子にもつ愛情はつねに純粋で感情的だ。だから、いろんなドラマが生まれるんだ」と語っています(3)。

 いっぽうのガリは、自伝的小説『夜明けの約束』(4)で、壮絶な母親像を描き上げます。主人公は、母の死を三年半もあとになってしります。母親は友人に250通もの手紙を託し、自分が死んだら、これを一通ずつ投函してくれと頼んでいたのです。もっともこれは実話ではないとされており、母の嘘は嘘という二重の嘘。

 お母ちゃんたちは、必死に生き、息子を溺愛しました。息子たちは、その母の愛を数倍にふくらまし作品として返礼したのでしょう。でも、その一方、彼らは「列車で生まれた」と、うそぶくことで出生の地、すなわち母の呪縛を逃れ、漂流しようとしていたようにも思えるのです。

 

(1)「おいらの故郷は汽車の中」(角川春樹事務所『寺山修司の忘れ物』所収)

(2)『天の根』ゴンクール賞受賞時のインタビュー

(3)『寺山修司のいる風景』寺山はつ、中公文庫

(4)『夜明けの約束』岩津航訳、共和国