間に合った奇跡

 是枝裕和監督の映画『歩いても歩いても』に、「人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない」というセリフがある。父と母を送った後、何度も同じことを思った。子供の頃のことを聞いておけば良かった。ああししてあげればよかった。もっとやさしい言葉をかけてあげればよかった。でも、もう間に合わない。

 間に合わないことの方が多いのだろう。それだけに、「間に合った」ことは奇跡なのだ。『来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』(木村哲也著、水平社)を読んで、その奇跡にめぐりあったような気がした。著者の木村さんは、詩人の大江満雄と交流のあったハンセン氏病詩人をたずねてまわる。彼がこうして活字に残さなければ、失われた記憶がある。すべての記憶を録音録画することなどできない。だからこそ、誰かが拾い上げ保存するしかない。その人がそのときにそこに行かなければ拾い上げられなかったものがある。それを活字として共有するとき、ああ間に合ってよかったという思いがこみ上げてくる。

 ロシア系の少年が輸血を受けたら日本語で詩を書けるようになったという伝説めいた逸話。盲目の詩人が語る「長い療養生活のなかで」「ピカッと光っている」思い出の輝き。大江氏が「みんなレプラになれ」という詩句を他人の不幸を願う呪詛ではなく、「不合理な永い間の恐怖の恐怖感」によるものであることを理解した上で、「面白い」と評していたこと。わずかに名前だけが記された人にしても、そこに言及されなければ消えてしまっていたかもしれないのだ。「外」の世界にいれば、血縁者や同僚や友人が語り継いでいたかもしれない。だが、隔離された人の記憶は、誰かが記録しなければ閉ざされたまま消えてしまう。

 実は、塔和子の詩は以前にも読んだことがあった。先に作品と出会い、あとから彼女がハンセン病詩人であると知ったとき、どこかで戸惑う気持ちがあった。病名というレッテル貼りがなくても彼女の作品は読むことができるはずだ。結核文学という言い方はあるが、認知症詩人、がん詩人などという言い方はしないだろう。病という属性で人を語ることに抵抗を感じたのだ。

 このあたりは父の影響が大きい。私の父は幼少時にポリオに感染し、生涯、松葉杖を使用していた。その後、座位でできる仕事を求め、父は精神科医となった。父は、「障害者なのに頑張っている」と言われるのをひどく嫌っていた。弱者への同情、いやある種の尊敬さえもときに「差別的」だと感じるひとであった。

 詩人の側にも同様の思いはあったのだろう。「来者の群像」にも、大江の言葉として「ハンセン病であることを外に強調するな、人間として純粋なものをうたえ」とある。最近刊行された「志樹逸馬詩集」(若松英輔編、亜紀書房)は装丁も美しく、病名やその病にまつわる悲しい歴史を知らぬまま手に取る読者も想定しているように思う。詩を通して、病による壁を越えられるならそのほうが幸せかもしれない。

 だが、その一方で、「ただ一つ残された舌先のあわい感覚にすべてをかける」(小島幸二「舌読」)という言葉だけで「舌読」という行為のもつ意味を想像できる人がどれだけいるだろう。「やわらかかった指」(森中正光「指」)という言葉が単に若さをなつかしむのではなく、病にゆがめられた指の過去の姿だとすぐにわかる人がどれだけいるだろう。私には自信がない。背景を知ることは、病と人を同一視することにはならない。むしろ、病の奥にある人を知ることなのだ。「来者の群像」を読んで、私は「詞書き」の力を感じたし、ひとつひとつの詩、詩人の背景を知ることができてよかったと思った。

 肉親の声を聞くのに「ちょっとだけ間に合わなかった」私も、その意味では、誰かの記憶の後継者となることができる。長らく近くて遠い場所だった全生園と国立ハンセン病資料館に足を運ぶことは今からでも間に合うはずだから。本は時を超えて待っていてくれるから。

 

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