詩の翻訳 映画『パターソン』と『月下の一群』

 ジム・ジャームッシュの映画『パターソン』のなかに「詩の翻訳なんてレインコートを着たままシャワーを浴びるようなものだ(Poetry in translations is like taking a shower with a raincoat on.)」というセリフがある。これを聞いたとき、映画館の暗闇で思わず苦笑してしまった。私はちょうどそのとき、字幕という「翻訳」を通して、この映画の「詩情」を堪能していたからだ。

 音韻の翻訳は不可能だが、詩情の翻訳は可能だと思う。詩において、音韻と詩情が不可分である以上、翻訳が不可能だという考え方はわからないでもない。だが、それならば、小説だろうが、戯曲だろうが、そもそも100パーセントの翻訳など存在しない。散文にも音律はある。文体のリズムや、調べを完ぺきに伝えられる翻訳は存在しない。それでも、翻訳文学は人の心を動かしてきた。

 アメリカの詩人ルイーズ・グリュックのノーベル文学賞受賞を受け、沼野充義氏は産経新聞でロバート・フロストの「詩とは翻訳で失われるもののことである」という言葉を引きながらも、日本の詩人の英訳が進んでいることを挙げ、世界規模での詩人たちの交流を紹介している(★)。詩は翻訳できる。100パーセントではなくても、伝わるものはある。さもなければ、『海潮音』や『月下の一群』が人々を魅了してきたことが説明できないではないか。フィリップ・フォレストの小説『さりながら』も、一茶の俳句 「露の世は 露の世ながら さりながら」の仏訳なくしては成立しない。

 翻訳したいと思わせる詩があり、原語で読みたいと思わせる訳文がある。岩波文庫の「ディキンソン詩集」や「ランボー詩集」は対訳である。訳詩に魅力を感じなかった読者が、原詩で読みなおそうとするだろうか。むしろ、訳詩に魅力を感じたからこそ、もう一歩踏み込みたくなるのではないだろうか。

 冒頭のセリフに対して、私ならこう返したい。「レインコートを着ていても、水流の強弱や水温は伝わってきたでしょう? もし、あなたがレインコートを脱いで、じかにシャワーを浴びたいと思ったのなら、それはすでに詩という水流に魅了されたからではないのですか」

 そして、レインコートの生地をいかに薄くするかが翻訳者の腕の見せ所なのである。

 

産経新聞 2020年10月30日「ノーベル文学賞で<詩>復権?」