まなざしのおはなし 映画『燃ゆる女の肖像』と智恵子抄

 画家はとある令嬢の肖像画を依頼されます。写真のない時代、その肖像画はお見合い写真のようなものなのです。画家は「被写体」であるその令嬢を観察し、作品を仕上げていくうちに彼女に恋をしてしまいます。その結果、作品は、写実絵画から、ラブレターへと変わってしまうのです。画家の名はマリアンヌ、令嬢の名はエロイーズ。そう二人とも女性でした。映画『燃ゆる女の肖像』の話です。

 クィア映画として賞も取っていますが、あえてここではまなざしについて書きたいと思います。画家はモデルを見つめます。最初は、画家であることをふせ、「盗み見る」ことで一方的に観察します。やがて、ふたりは互いに惹かれあい「見つめあう」ようになります。ここで視線は双方向性をもちます。まなざしが交わるのはほんの一瞬のことなのです。まして、その瞬間が作品として昇華されることとなると、奇跡といっていいのかもしれません。ふたりが別れた後、画家は二度エロイーズを「盗み見」しますが、そこにはもう対等な交流はありません。マリアンヌの見たエロイーズは絵の中に結晶化します。エロイーズはマリアンヌ自画像、今、自分が見ているあなたの姿を求めますが、果たして、それは「エロイーズの見たマリアンヌ」なのでしょうか。

 芸術とは残酷なものです。高村光太郎の見た智恵子は残りますが、智恵子の見た光太郎は消えてしまうのです。「あどけない話」をしていた妻は、どんなまなざしで夫を見つめ返していたのでしょう。それとも芸術家の伴侶は鏡に過ぎないのでしょうか。油絵を描いていた智恵子は光太郎のモデルとなることを選び、やがて絵を描かなくなります。彼女は、心を病み、切り絵の世界にやすらぎを見出しました。つくるのは花や果実など、まなざしをもたない静物ばかり。でも、それを選んだのは智恵子でした。智恵子は夫がモデルを使うことに嫉妬し、自らがモデルになったとそうです。「私を見て」と求めたのは彼女のほうでした。映画『燃ゆる女の肖像』のなかではオルフェウスの神話が引用されています。「私を見て、忘れないで」と妻は願い、オルフェウスは振り向いてしまいます。黄泉から地上を目指す長い道のり、彼女はずっと前を行く夫の背を見ていたのです。きっと。

『燃ゆる女の肖像』の監督セリーヌ・シアマは、エロイーズ役の女優アデル・ヘネルと以前、恋愛関係にあったそうです。シアマ監督のヘネルを見つめるまなざしは作品のなかに残り、カメラを見るヘネルのまなざしもまた永遠になりました。監督と女優、画家とモデル、二重の意味でまなざしの交流は結晶化されたのです。

 

 

映画『燃ゆる女の肖像』セリーヌ・シアマ監督、2019年

智恵子抄高村光太郎新潮文庫

『光太郎と智恵子』北川太一、津村節子、高村規、藤島宇内 (新潮社とんぼの本)