他者の声で話すこと 翻訳と当事者性 

  NHKワールドニュースを見ていた時のこと、画面では女性キャスターがしゃべり、通訳の音声は男性の方でした。するとたまたま通りかかった夫がそれについて「女性が男性の声しゃべっているような気がして、なんか違和感がある」と言うのです。私にしてみれば、話者の性別と通訳者の性別が異なるのは別に驚きでもなんでもないのですが、夫は通訳者の声を、いわゆる吹替(洋画の吹替や、ヴァラエティ番組でもよくありますね)として聞いてしまったようなのです。確かに、テレビをちらりと見ただけで、それが洋画の一場面なのか、ニュースなのかわからなかったのは無理からぬことです。でも、私はその日、つい、むきになって女性の言葉を通訳するのは女性に限定されるわけがないでしょう、と主張してしまいました。というのも、その数日前、「フェミ本」は、女性が訳すべきという声をツイッターで見かけて、ひっかかりを感じたばかりだったからです。 

 そもそも何をもってフェミニズム本と定義するのでしょう。男性作家の書いた、男性が主人公の作品にもフェミニズムの精神はあるのです。今年の1月、『シモーヌ』vol.3の刊行記念イヴェントで、デュマ・フィス『椿姫』の一節を朗読しました。

「世界はまだ完ぺきではない。それでも、以前よりも良くなっている。(中略)悪は虚しいものにすぎない。善を誇ろう。そして、何より、希望を失わないことである。母でも娘でも妻でもない女だからといって軽蔑するのはやめよう。家庭にある女性だけを大事にするのも、利己心にのみ寛容であるのも間違っている(*)」

 これは、「娼婦」であるヒロイン、マルグリットを擁護するために書かれた言葉であり、キリスト教的な倫理を念頭において示された理想なのですが、現在のフェミニズムに通じるものを感じます。女性が声をあげるのが難しかった時代、男性作家たちは、女性たちが抱える理不尽さへの怒りを拾い、登場人物たちに語らせてきました。同じく19世紀の作家、モーパッサンにも、とある「良妻賢母」のセリフとしてこんな言葉が出てきます。

 「わたしは、わたしたちは、文明世界の女なのですよ。わたしたちはもはや繁殖用の牝ではありませんし、いいかげんそうした役割は願いさげにしていただきたいものです(**)」

 文学は性別を超えるはずのもの。いえ、性別だけではありません。肌の色や人種、宗教についても同じです(***)。子供の気持ちを大人の作家が代弁し、病者の思いを健常者が代弁することも文学の力だと思うのです。もちろん、代弁者がでしゃばって、当事者の口を封じることはあってはなりません。でも、当事者の証言にしかリアリティを感じられないということになると、文学は成立しなくなります。作家は自伝と私小説しか書けなくなってしまうし、同性、同年代、同様の経験をもつ作家の作品しか訳せないとなれば、世界文学どことか、世界はどんどん狭小化していってしまいます。私はこれからも男性作家の作品を翻訳するでしょうし(もちろん、女性作家の作品もね)、自分とはちがう環境に育ったひとの思いを自分に重ねながら書き続けていきたいと思っています。どんなに「あなたにわかるはずがない」と言われても、「わからない」ことを前提に一歩踏み出すこと、ちょっとだけこじ開けた隙間から風をいれることが翻訳だと思うから。

 

 

*デュマ・フィス『椿姫』永田千奈訳、光文社古典新訳文庫

**モーパッサン『あだ花』(『オルラ/オリーヴ園』所収)、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫

***黒人詩人作品でまた騒動、「属性」理由に白人翻訳者の契約解除 https://www.afpbb.com/articles/-/3336122