自転車 乗るも乗らぬも親の愛

 呉明益の「自転車泥棒」*は失踪した父とその自転車をめぐる物語である。だが、不思議なことに私の印象に残ったのは、父が疾走する前の話。語り手の母が自転車に乗る場面だ。「口減らし」のために、娘が遠くに連れていかれそうになり、母親は娘を奪い返すために駅へと走る。走っても間に合わないと悟った母親は、今まで一度も乗ったことのない夫の自転車にまたがり、駅を目指す。ペダルの重さ。砂利道ではずむタイヤ。ブレーキのかけ方など知らなかったのかもしれないし、ブレーキをかける必要もなく急ぐ母。私も、彼女と一緒に数行を走った。走り抜けた。

 いや、でも、一度も自転車に乗ったことがない者がすぐに乗れるものなのだろうか。そんなことが気になったのもこの場面は忘れられない理由の一つだ。というのも、私は自転車に乗れないのである。

 ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』**で、とわ子の父親が言う。「あなた、自転車乗れないでしょう。私が教えなかったからでしょう」父は、娘が自転車に乗る練習を始める年齢になった頃から妻と顔を合わせるのがつらくなって不在がちになり、娘の自転車の後ろを押してやれなかったことを詫びる。もちろん、自転車のことだけを謝っているのではなく、子供時代の幸せを奪ってしまった自分を責めているのだ。そんな場面を見ながら、私は自分の父からも謝ってもらったような気がした。私が自転車に乗れないまま大人になってしまったのも、父が原因なのだ。

 父は私が自転車に乗ることを許さなかった。お金がなかったのではない。危ないからだ。なんでも父の友人が自転車事故で子供を失ったのを知り、怖くなったのだという。だが、たぶん、理由はそれだけではない。父もまた自転車に乗ったことがなかったからだ。父は三歳のときにポリオにかかり、足が不自由だった。歩行には、つねに松葉づえが必要だった。自分が乗ったことがないものに一人娘が乗ることを当時の父は受け入れられなかった。いや、想像さえできなかったのではないだろうか。母は父に逆らうことができず、私は友人の自転車を借りて練習などしてみたものの、自転車に乗れないまま大人になった。

 要するに父は臆病だったのだ。だが、それも愛だったのかもしれない。父が亡くなって一年ほどたった頃、津島祐子の「火の山」***を読んでいたら、こんな文章に出会った。散々苦労をかけで死んだ画家、冬吾があの世から妻に話しかける場面だ

「死んだら、すっかりゲンキになったんだ。オレの足までなおって、いまじゃいぐらでも走れるようになった。自転車にものれるぞ」

 そうか、死んでからでも自転車には乗れるのか。父もきっとあの世で自転車に乗っている。そして、私はと言えば、中年太りを気にして数年前からジム通いを始めた。ジムでは、補助付きの自転車よろしく、エアロバイクを漕いでいる。前に進まぬ自転車を漕ぐ娘を見て、父は笑っているだろうか。

 

*呉明益『自転車泥棒』天野健太郎訳、文春文庫

**TBSドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(坂元裕二脚本)最終回(2021年6月15日放送)

***津島祐子『火の山 山猿記』講談社文庫