「動物たちの家」で待っていた犬

 バスのなかで見覚えのある顔を見つけた。その界隈ではちょっとばかり有名な本屋の店主さんである。常連客でもお得意様ではない私はご挨拶するきっかけを失い、彼の手の中にある本を見ていた。緑色のハードカバーに犬の絵。犬好きの私は、心惹かれつつも、それは何の本ですかと問う勇気もなく、下車していくそのひとの背中を見送った。

 犬は好きだ。でも、ほのぼのとした表紙の写真に心を惹かれ、手にした『動物たちの家』(奥村淳志、みすず書房)には、いろいろな意味で裏切られた。その内容が主に、ともに暮らした動物への懺悔だったからである。動物の飼い方、いや、コンパニオン・アニマルとの暮らし方はこの数十年で劇的に変化した。だから、昭和の時代の庭で鎖につながれたままの犬、残飯で養われる動物たちの姿を思い出すと、申し訳ない気持ちになる。成長に伴い外へと関心が向かう子どもの身勝手さ。世話の行き届かない飼い主にかわり、世話をするものの、どこまで手を出してよいのかわからぬ苦悩。どれもこれも身に覚えがある。

 私の場合、最初の記憶は善福寺の借家である。動物を飼うことは禁止されていたが、放し飼いの犬たちがいた。野犬ほど野性味はなく、野良犬というほど哀愁はない、中途半端な状態で飼われた犬たちがうろついており、ジョン(ネズミ捕りが得意で、下水溝の前で待機していた)や、べべちゃん(愛玩犬の雑種らしく小柄で、いつもお尻に木の葉やごみがついていた)と名前がついていた。あちこちの家から残飯をもらい、自由に生きていた彼らは幸せだったのか、不幸だったのか。子どもの私は、彼らのことが好きで仲良くなりたくて、でも、どこかで怖がってもいた。

 動物たちもまた私にとってはいつも感情的に「遠くて近く」、損得勘定で生きる人間とは「似て非なる」存在のままだ。同じ生物としてこの世にすれ違った縁を記しておくことも供養になるだろうか。『動物たちの家』を読み終え、書店でつけてもらったカバーを取ろうとしたら、写真カバーまで一緒にはずれてしまった。すると、そこにあの日、私がバスの中で見かけた緑色の表紙が現れたのである。そうだった。犬はいつも、こうしてじっと待っているのだ。散歩を。ご飯を。愛する人の帰りを。