お花畑の下にあるもの ひまわり、なのはな、桜の園

 フランスにゆくまで、私にとってひまわりは「花」だった。だが、フランスのスーパーの食品売り場をうろうろしていると、自炊を始めたばかりの私の目に「L’huile de tournesol」というひまわりの花の絵が描かれたラベルが目に入った。ヒマワリ油。映画「ひまわり」に出てくるひまわりは、「農作物」の畑だったのだ。

 南仏のラベンダー畑も観光用ではなく、地元の一大産業だったし、オランダのチューリップ畑でさえ大きく広がったのは、投資のためだった(*)。そういえば、山村暮鳥の詩「いちめんのなのはな」もまた、菜種油のための畑だったのかもしれない。

 極めつけは、チェーホフの「桜の園」である。没落貴族を象徴するあの桜の園は、ソメイヨシノの咲く上野公園などとは程遠いサクランボ農園だった。それを知って以来、ロシア料理の店に行き、紅茶に添えられたサクランボのジャムを見ると、桜を伐ってしまえばもうサクランボは採れず、このジャムを食べることもなくなるのかと、ふと登場人物にわが身を重ねてしまうのである。

 野の花が咲き誇る平原やこぼれ種が自然にひろがった花野もないわけではないだろうが、花畑は文字通り多くが「畑」なのだろう。現実離れした理想主義や平和主義を「お花畑」と揶揄する言葉をよく聞くが、その畑に種を撒き、草取りをし、花の咲いたあとの実を収穫する人がいると思うと、花畑は子どもたちが花を摘んで遊ぶためにあるのではなく、生活であり、営みであることに気づく。そもそも花には根も葉も「ある」。そしてまた梶井基次郎の言葉を引くまでもなく、花の根元には屍体が埋まっていることもある。そう思うと「お花畑」という言葉は、案外、言い得て妙な表現なのかもしれない。

 

 

(*)デボラ・モガー『チューリップ熱』(立石光子訳、白水社)ほか