飛行機工場の少女  「紅の豚」と武蔵高女の先輩たち

 宮崎駿監督の「紅の豚」を見るたびに胸が苦しくなるシーンがある。男たちが出稼ぎに出て、残った女ばかりで飛行機を造るシーンだ。若い女性設計士ピノの設計した飛行機を造るために、親戚中の女たちが集められる。飛行機=男のものという常識を翻す女性たちの姿に拍手を送るはずが、どこかつらくなってしまうのは、監督の意図とは異なり、「女だけが働く工場」という絵図が、私の高校の先輩たちを想像させしまうからだ。

 先輩といっても部活の先輩といったものではない。私の卒業した都立武蔵高校の前身、武蔵高女の卒業生たちだ。校友会の会誌などで、在学中から「先輩」たちが戦時中、飛行機の工場で勤労奉仕したことは聞かされていた。地理的な近さから中島飛行機かと思っていたが、主に昭和飛行機の工場に送られていたらしい。当時としては珍しいことではない。作家の田辺聖子さんの高校時代の日記にも関西の工場で働いたときのことが書かれている(*)。馬場あき子さんにも「軍国の少女のわれが旋盤をまはしつつうたひゐし越後獅子あはれ」という歌がある。さすがに作家や歌人の目は違うと思われるが、工場で働いた無名の先輩たちもまた、当時のことを書き綴り、残そうとしてきたのである。彼女たちは文集をつくり、やがて、それがネット上に公開され(**)、それをもとに朗読のyoutu.beチャンネル(***)もつくられている。工場で働くことは誇りだったのか、ただつらい経験だったのか、それを一言であらわすことは難しい。あとから見ればそれは「強制労働」でも、当時の彼女たちにはときに友と笑う瞬間はあったのだから。なかにはこんな記述もある。「いじらしくも愛国精神にもえていたあの当時は、こうした毎日に充実感を持ち、体力的には苦痛であっても、精神的な苦痛はありえなかった。しかし、戦争という興奮状態から覚めたとき、フッと考えさせられることがある。若しあのとき、一機でも少なく生産していたなら、それだけ尊い生命を散らさずにすんだであろうに…と。二十三、四才の彼等は、私共と異なり、戦争に対して疑惑を持ちながらも、光栄と思い込まされて、自ら命を絶ったのではなかろうか」

 「紅の豚」の飛行機工場は少女だけではなく、老婆も主婦もいるし、監視する軍人がいるわけでもないので、実に楽しそうだ。それでも、工場長の「天にましますわれらが神よ。女の手を借りて戦闘艇をつくる罪深きわれらをお許しください」という言葉は、「闘うため」の飛行機であることを示唆している。そしてまた、宮崎監督がその後零銭設計者を主人公とした「風立ちぬ」をつくったことを思うと、女だけの飛行機工場は私にとって、やはり苦い思いを残すのである。

 

(*)『田辺聖子 十八歳の日の記録』文藝春秋

(**)https://sensounokioku.jimdofree.com/

(***)https://youtu.be/rrqd-mCieEQ