もし、ランボーが ......   ―エリセ監督『瞳をとじて』によせて―

 ランボーは、10代で詩集をだし、20代で詩を捨て、30代で死んだ。だが、もし、ランボーが死の間際に再び詩の世界に戻っていたら、と想像する。いや、もし彼の遺作が見つかったら? それは十代の作品と明らかに違うものだろう。天才少年のままでいてほしかったと思う読者もいるだろう。でも、詩人はきっと(書くのをやめても)一生、詩人でありつづけただろうし、やむにやまれぬ思いでペンをとったとしたら、それは誰にも止められないのだ。

 そんなことを考えたのは、エリセ監督の30年ぶりの新作長編映画瞳をとじて』を見たからだ。賛否は別れた。30年前の夢の続きを求めた者には酷な内容だったともいえる。それでも、それでも私は映画館に足を運んだし、運んでよかったと思っている。

 『瞳をとじて』は年老いた元映画監督が行方不明の俳優を探す物語だ。見つけ出した「彼」はもはや「昔の彼」ではない。少女の瞳を借りて描き出した『ミツバチのささやき』や『エル・スール』と違い、少女は瞳をとじている。老いた監督は自分の目で現実を見る。老いや時間や孤独を見る。

 配信に慣れてしまった観客に3時間は長い。でも、それだけの時間を奪うだけの必然性があるとしたら、それはやはり時間の共有だろう。3時間の闇で、観客は『時の流れ』を共有する。もはやそこにあるのは一瞬の輝きではなく、時間そのものだ。あのまま引退することもできただろう。でも、もういちど戻らざるをえなかったのならば、それを止めることはできないし、その必然を共有することが映画なのだと深いしわが、犬の尻尾が、ずぶぬれの人たちが教えてくれた。空白を恐れず、妖精の力を借りず、今までとは違う目で世界を見る勇気も。私(たち)は映画館に時間を眺めにいったのだ。空白の30年は決して空虚ではなかったことを確かめに。

 あの日、小さな映画館には30年前には子供だった、いや生まれていなかったかもしれない若いひとたちがいた。彼らの目にスクリーンのなかの老監督の姿とカメラ越しにそれを見ていたはずの老監督の姿はどのように映っただろうか。