喪の仕事

怖くはないですか 

「怖くはないですか」とそのひとは問い、「怖いですよ。でも……。」と私は答えた。場所は中華料理屋。翻訳教室の懇親会。受講生の方からの質問は「フランス語の翻訳をしていても、舞台がフランス以外の国だったり、登場人物が外国人だったりすることがある。…

エルノーの介護日記を読む

マネキンの着ているガウチョ・パンツをほしいと言ったら、店員さんがその場でマネキンの着ていたものを脱がし始め、なんだか心がざわざわした。その手つきが、母の下着を脱がすヘルパーさんの所作を思い出させたせいだと気づいたのは帰宅してからだった。ど…

近くて遠い父子  『夜の少年』とネトウヨの父

「好きな人」が「好きだったひと」になってしまうのは悲しい。変わってしまったのは相手の方かもしれないし、自分の方かもしれない。恋には心変わりによる別れがある。だが、家族はそう簡単に別れられない。 鈴木大介著『ネット右翼になった父』(講談社新書…

亡きひととともに生きる ボバンとオルヴィルール

宗教をひたすら避けていた時期があった。膝のじん帯を痛め、動けない私に池田大作の本をどんと送り付けてきた学会員の伯父が嫌いだった。大学に進むときもミッション・スクールは避けた(今にして思えば立教にも上智にも好きな先生はいたのだが)。それなの…

放尿記 薫とレーナ

タンポポの仏語名はダンデライオン(dent de lionライオンの歯)と聞くと勇ましいが、もうひとつの言い方、ピサンリ(Pissenlit)は、おねしょ(Pisse en lit) という意味も重ねもつ。おねしょで叱られた記憶はないが、トイレを探す夢は見る。トイレを探し…

拝啓 市河晴子さま

『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』(*)、旅先からの絵葉書を受け取ったかのように胸躍らせながら、拝読いたしました。そしてお返事を書きたくなりました。ご無礼かもしれませんが、「三喜さんと歩調を合して大股に歩き」、「対等ということはそれほどむずか…

老いを読む、老いを書く

更年期だ、老眼だと落ち込む私を知ってか知らずか、身につまされる本をW氏からいただいた。「作家の老い方」(草思社)という本で、芭蕉から穂村弘まで老いをテーマにした詩歌、エッセイなどがずらりと並ぶアンソロジーだ。堀口大學、杉本秀太郎、吉田健一、…

岩波ホール 惜別

2022年7月29日岩波ホールが閉館しました。高校生の時から何度も通った映画館です。映画「女の一生」が公開された折、試写会や「友の会」の講演に呼んでいただいたのも良い思い出です。その一方で、しばらく前から「友の会」会員や、観客の平均年齢の高さ(い…

「動物たちの家」で待っていた犬

バスのなかで見覚えのある顔を見つけた。その界隈ではちょっとばかり有名な本屋の店主さんである。常連客でもお得意様ではない私はご挨拶するきっかけを失い、彼の手の中にある本を見ていた。緑色のハードカバーに犬の絵。犬好きの私は、心惹かれつつも、そ…

ワタシノバンナノデスカ 少女と老婆

母が亡くなってから、ふと鏡のなかの自分をみて、老婆のすがたに驚くことが増えました。介護から葬儀、実家の処分までの疲れがでたのかもしれません。コロナ禍のせいで人と会う機会が減ったことや、アレルギーのせいで髪を染めるのをやめたのも老け込んでし…

となりの狂気  Crazy & Follement

今年4月に『狂女たちの舞踏会』(ヴィクトリア・マス著、早川書房)という訳書を出しました。タイトルは原題のLe bal des folles の直訳なのですが、思わず編集者さんに「この訳題そのままでだいじょうぶですね」と念を押してしまいました。そして、自分でも…

知らなくていいこと 勿忘草と青い自転車

「目に映るすべてのことはメッセージ」とは荒井由実の「やさしさに包まれたなら」の歌詞ですが、「後悔に包まれた」ときにも同じことが起こります。母が亡くなってからしばらく遺品整理のために実家通いが続いたのですが、玄関に広がった大きな蜘蛛の巣を見…

魔女の伝言

母が亡くなる一か月前、実家で梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』を見つけた。文庫本ではなく、立派な装幀の愛蔵版である。聞けば、お友達の娘さんが不登校だと知り、その子に贈ろうと購入したものだという。代わりに送っておくから、名前と住所を教えて、…

本の一生 

人の一生とおなじように本には本の一生があるのでしょう。あっという間に捨てられてしまう本があれば、人間よりもずっと長生きする本もあります。 実家を処分するにあたり、たくさんの本とお別れしました。 精神科医だった父の本は医学書が中心でした。医学…

間に合った奇跡

是枝裕和監督の映画『歩いても歩いても』に、「人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない」というセリフがある。父と母を送った後、何度も同じことを思った。子供の頃のことを聞いておけば良かった。ああししてあげればよかった。もっとやさしい言葉をかけて…

切れる糸 つなぐ糸      

子供の頃、私は母の手作りの服を着ていました。小学校の上履き袋も体操着袋も母の手作りでした。でも、母は不器用な人でした。何か作らなくてはならなくなると布と糸を買ってくる。残った端切れや糸はとっておくのだけれど、いつの間にか忘れてしまい、次に…

だんだんしゃりしゃり

実家の片付けはなかなか進みません。車で行って、誰にも会わずに作業する分には、コロナ禍も関係ないとは思うのですが、気持ちが動かないのです。コンマリ式の「スパーク・ジョイ」も遺品整理には効果がありません。ときめくものなどないのです。むしろ、断…

おうちのいのち

母の一周忌が終わりました。長くて短い一年がすぎました。 母の死はまた家の死でもありました。換気やら遺品整理やら、実家にいくたびに、それを思い知らされます。最初は匂いでした。締め切ったままの家には、独特の匂いが漂います。そして、庭。草が伸び、…

母について ヴィルジニーのプライド 3

実家がどんどん荒れていくことに気づいていないわけではなかった。何とかしたいと思っていた。実家に様子を見に行こうとすれば、「忙しいんでしょ、来なくていいわよ」と言われ、それでもと押しかければ、散らかり放題の家を見て、「なんとかしましょうよ」…

母について ヴィルジニーのプライド 2

父が死んだあと、母は家事をしなくなった。もともと家事が好きなひとではなかった。いや、別に家事をしないならしなくてもいい。家政婦を頼むなり、もっと小さな部屋に引っ越すなり、ほかに方法はあったはずだ。だが、母は遅くまで起きて市長への陳情書を作…

母について ヴィルジニーのプライド 1

母が死んで何がつらいって、ちっとも悲しくないことがつらい。あんなに大事に育ててもらったのに。父が死んだときはあんなに悲しかったのに。空っぽになった実家にいくとわいてくる感情は悲しみではない。怒りや自責の念や憤懣やるかたない気持ちはあっても…

母と娘 アンヌとシモーヌ

ここ数か月、心のなかで何度もアンヌ・フィリップの「Je l'ecoute respirer」を読み返していました。「心のなかで」というのは、実家と自宅の往復でへとへとになってしまって、本を開く余裕がなかったから。いいえ、ほんとうは、その本をひらき、心に浮かん…

母と娘 

ひさしぶりの更新です。この親にしてこの子ありといいますが、母は私にとって、まさに「似て非なる者、遠くて近き者」でした。今日は母のことを少しだけ。新年早々、めでたからぬ話で恐縮です。 1月某日、初めて喪主というものを経験いたしました。母があの…