犬の映画 映画の犬

  エリセ監督の最新作『瞳をとじて』には犬が出てくる。映画を撮らなくなった主人公が家に帰ると尻尾を振って出迎えるのは犬である。イーストウッド監督の『グラントリノ』でも孤独な主人公に寄り添う犬がいた。

 犬の映画は好きではないが、映画の犬は好きである。前者の代表はラッシーやベンジー、ベートーベンなどの名犬たち。文句なしに可愛い。賢い。だが、トレーナーの存在が透けて見える。先生のいうことをよく聞く優等生みたいだ。同様に、擬人化された犬も苦手だ。犬の尻尾やまなざしがあんなにも雄弁なのは、言葉をしゃべらないからこそなのだから。

 その点、映画の犬はいい。たとえば、タルコフスキーの作品をうろつく犬、カウリスマキの作品の犬種も定かならぬ犬たち、ああ、タチのダックスフントもいい。犬たちはストーリーに関係なく登場人物たちの周囲を走り、うろつき、佇む。ただの背景のようでさえある。だが、背景と異なるのはそこにまなざしがあるということだ。

 犬はいつもこちらを見ている。ときに目が合う。ストーリーに関係ないはずの犬が、主人公を支えていると感じるのはそんな瞬間である。犬は肯定感で満ちている。登場人物に寄り添うその姿は、観客にも寄り添ってくれる。

 マルセル・カルネ監督『霧の波止場』にもジャン・ギャバン演じる脱走兵につきまとう犬がいる。この犬がとても愛らしく、悲運の登場人物の最期を見届けるのもこの犬なのだ。マッコルランの原作小説(*)にもきっと犬がと思って読んでみると、なかなか出てこない。でも、最後の方でちゃんと犬は登場し、カルネはたったこれだけの記述からあの犬を生み出したのかと思うと感慨深い。絶望を描いたこの作品にあって数少ない希望、肯定感を背負っているのがこの小さな犬なのだ。

 

(*)マッコルラン著、昼間賢訳『夜霧の河岸』(国書刊行会マッコルラン・コレクション第三巻『真夜中の伝統/夜霧の河岸』所収