いくつもの名前とひとつの体

   SNSを始めるとき、周囲から「実名を使うのはあぶない」と言われた。かといって、自分の訳書の紹介もしたいし、友人たちに私のことだと気づいてもらわないと不便だ。というわけで、苦し紛れにかつて句会で使っていた俳号もどきの永田永をアカウント名としてツイッターを始めた。その後、何年もたち、もはや実名に戻して堂々と言いたいことをいい、自分の文言に責任をもつべきだと思い始める一方で、多くのひとがいわゆる「裏アカ」をつくったり、用途別に複数のアカウントをもったりする理由もわかってきた。翻訳者としての私、ただ趣味の話をしたいだけの私、友人に愚痴を聞いてほしい私、私のなかには複数の私がいるのだ。

    精神医学によると、人は虐待などの極限状態に置かれると、苦しみから逃れるために、「傷ついた自分」以外に「もう一人の自分」を生み出すことがあるという。そこまで極端な例ではなくても、「一つの自分」に縛られたくないという願望は存在する。作家ロマン・ガリは、エミール・アジャールという別名でも小説を書き、ゴンクール賞を二度受賞しているし(*)、詩人ペソアは、70もの異名と別人格を使い文章をかき分けていたという(**)。キルケゴールもそうだ(***)。

     1967年生まれの私にとって、90年代は自分探しの時代だった。「ほんとうの自分」を求めて旅に出たり、本を読んだり書いたりするのが、当時の若者の主流だった。だが、ひとたび、職業が固定され、自分の居場所が見つかると、今度はそこから逃げたくなる。自分が確定されることは成長を止めることだ。私は、あなたの知る私ではないといいたくて、別の名前が必要になるのかもしれない。

     話をSNSに戻そう。アカウント名を変更しようとすると本人確認を求められる。私が私であることの証明はパスワードから始まり、つきつめていくと結局、生体認証に行き着く。どんなにいくつもの名を使い分けても、身体はひとつしかない。人の体は皮膚という表層と肉で出来ていて、心に形はないという意味でも「皮肉」と言えば皮肉である。「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」と北村薫(そういえばこの方もデビューしてしばらくは「覆面作家」だった)書いていたが(****)、複数の名をもつことは、心の複雑さに対して、肉体がひとつしかないことへの抵抗かもしれない。

 

(*)ロマン・ガリ名義の「自由の大地」(1956年)、エミール・アジャール名義の「これからの人生」(1975年)。

(**)澤田直著「フェルナン・ペソア伝 異名者たちの迷路」(集英社

(***)シャルル・ペパン『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』(永田訳、草思社

(****)北村薫「空飛ぶ馬」東京創元社