知らなくていいこと 勿忘草と青い自転車

 「目に映るすべてのことはメッセージ」とは荒井由実の「やさしさに包まれたなら」の歌詞ですが、「後悔に包まれた」ときにも同じことが起こります。母が亡くなってからしばらく遺品整理のために実家通いが続いたのですが、玄関に広がった大きな蜘蛛の巣を見ては、「母が私にこの家を受け渡すのを拒んでいるんだ」と考え、玄関わきに勿忘草が咲いているのを見ては、「忘れないで」という意味に思えて、母を忘れて仕事に熱中していた自分を責めたりもしました。主のいない家の引き出しから出てきたハンカチも、バッグに入れっぱなしになっていた封筒もすべてに意味があるように思え、何もかもがずっしりと重かったのです。

 そんなとき、Florence BurgatのQu'est-ce qu'une plante ?(*)という本にめぐりあいました。少々乱暴な言い方になりますが、現象学的な思考で、植物に(人間のような)感情はない、擬人化してとらえるのではなく、あるがままの植物を観察しなさいという科学者の主張に私は安堵しました。勿忘草は、自分に「忘れないで」という花言葉が投影されていることなど知らず、ただそこに咲いているだけなのです。花は別に人間のために咲いているわけではなく、花の名前も人間が勝手につけただけのことなのです。どんなに丹精込めて育てられても、その愛情に見合うだけの花を咲かせる義理などないのです。それはまた母と私の関係でもありました。私の言葉は届いていなかったのだろうかという自問や、愛されただけ、愛し返しただろうかという自責は意味のないことだと気づかなかったら、私は勿忘草を嫌いになっていたかもしれません。

 すべての読書はタイミングなのでしょう。絵本『モチモチの木』(**)に始まり、樹木に圧倒され、草花で遊びながら育った私はむしろ、植物にも感性があるとする人たち(***)に近い気持ちでいました。それなのに。自分からは手に取らぬタイプの本を、仕事の関係でたまたま手に取り、奇妙に心惹かれたのです。

それから一年がたち、先日、久しぶりに実家のあった場所の近くを通りかかったので、足を運んでみると更地にして手放したその敷地にはすでに新築の家が建っていました。玄関脇、かつて勿忘草が咲いていたあたりには青い自転車がありました。

 そのまま通り過ぎ、帰路についたのですが、不思議とさみしさはありませんでした。青い自転車のひとは、かつてそこに咲いていた青い花のことなど知らずに暮らすでしょう。それでいいのです。

 

*フロランス・ビュルガ『そもそも植物とはなにか』(田中裕子訳、河出書房新社)

**斎藤 隆介、滝平 二郎『モチモチの木』(岩崎書店

***P・ヴォールレーベン『樹木たちの知られざる生活: 森林管理官が聴いた森の声 (長谷川圭訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)』、D・チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている: 感覚に満ちた世界に生きる植物たち(矢野真千子訳、河出文庫) 』ほか