となりの狂気  Crazy & Follement

  今年4月に『狂女たちの舞踏会』(ヴィクトリア・マス著、早川書房)という訳書を出しました。タイトルは原題のLe bal des folles の直訳なのですが、思わず編集者さんに「この訳題そのままでだいじょうぶですね」と念を押してしまいました。そして、自分でもはたと思ったのです。どうして「狂う」という言葉をタブーだと思うようになったのだろうかと。

 サイモン&ガーファンクルは「時の流れ」で、still crazy after all these yearsと歌います。ここでのcrazyは狂乱とは無縁の境地です。フランス語のfouも、映画「気狂いピエロ(Pierrot Le fou)」や音楽祭「フォルジュルネ(folle journée)」など、日常語として使用されており、ここでの「狂」は何かに夢中になること、逸脱を意味するものであり、不思議とネガティブなイメージはないのです。いやむしろ、理性を捨ててこそ「本気」という気さえしてきます。「狂言」「狂歌」などという使われ方をみると、日本語の「狂」もかつてはそれほどネガティブな意味をもっていなかったのかもしれません。

 父は精神科医でした。そのため、子供の時から患者さんを蔑むような言葉は使ってはいけないと教えられていました。若き日、父が赴任した病院にはまだ脳病院(そういえば、斎藤茂吉は青山脳病院の院長でした)や瘋癲院,癲狂院の名残があり,自宅軟禁や長期入院に心痛めていたそうです。だから、「狂人」扱いすることで、心の病に苦しむ方々を揶揄したり侮蔑したりすることは避けたいという思いはよくわかります。

 その一方で、狂気は病院のなかにいるものではないということも確かです。『狂女たちの舞踏会』の登場人物のひとりジュヌヴィエーヴは科学を愛し、理論を愛する理性の人であったのに、ほんのちょっとしたきっかけで「あちら」から「こちら」へとやってきます。狂気はどこにでもあり、誰だって「狂う」ことはあるのです。誰かを好きになったり、別れや死が受け入れられなかったり、きっかけなんていくらでもあるのでしょう。最近耳にする「闇落ち」や「沼落ち」といった言葉もまた同じことを意味しているのでしょう。「狂」という字を遠ざけるとき、そこには枠のなかにすべてを収めようとし、逸脱を恐れ硬直化していく心があるような気がして、せめて私は狂う側にいたいと思うのです。いや、そんなふうに自分で決意しなくても、いっそ狂ってしまえば楽かもしれないと思いつつ、踏みとどまるとき、その心にはすでに狂気があるのでしょう。

 

反歌

今はもう言葉はいらないでもあなたわたしがしんだら狂ってください

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