誤字の取りこぼし 貝殻と宝石 

 新しい訳書が出ると人並みに評判が気になり、ついインターネットを検索してしまう。なかには誤植、誤訳のお指摘もある。もちろん、ご指摘には感謝しているし、おのれの不注意、力不足を恥じつつ、そしてまたそこまで丁寧に読んでくれたことを思うと、嬉しくなる気持ちもある。

 そんな話を、年配の編集者の方に話したら、手書き原稿の時代、活字の時代に比べたら誤植自体は明らかに減っているとのこと。減ったからこそ「目に障る」ようになったのかもしれない。誤字脱字減らす努力はするけど、絶対や完璧はないよねという話だった。出版社によって、校閲が入るときもあれば、入らぬ時もあるが、誤植にばかり目をこらしていると、大筋を見落とす心配もあり、なんとも悩ましい。誤植だけではなく、誤訳についても同じだ。絶対に誤訳しない方法があるとすれば、一切翻訳に手を染めることなく生きるしかない。どんなに気を付けても、誤植や誤訳は出るものである以上、誤ったら謝る(なんだか洒落みたいですね)と心に決めている。

 逆の立場になることもある。自分が本を読んでいて誤植を見つけた時は、「あっ」と思う。フランス語では誤植のことをcoquille(コキーユ、貝殻)という。美しい言葉だとは思うが、砂浜を素足で歩いていて貝殻を踏むと痛いのである。牡蠣やあさりの剥き身を美味しく食べているときにジャリと歯や舌にあたるあれである。気にならないと言えば嘘になる。できれば、そっと教えてあげたい。

 小川洋子『ミーナの行進』(中公文庫)に、誤植を見つけると出版社にお手紙を出す「伯母さん」が出てくる。

 

「突然このようなお手紙を差し上げますご無礼、お許し下さい。私は日頃から貴社発行の書物に親しんでおります、一愛読者でございます。さて、現代思想シリーズ第十三巻『土俗信仰―そのカオスと受難』、大変充実した内容で、興味深く拝読いたしました。ただ一箇所、下記のような誤植を発見し、失礼とは思いながら一言お知らせすべくお便りする次第です」

 

 彼女は他人のミスをあげつらうのではなく、「活字の砂漠を旅し、足元に埋まった一つの誤植を救い出そうとしただけ」なのである。

 思えば、誤植や誤訳の指摘も、ネットという手段が誕生したことで、今まで出版社に読書カードなどを通じて届けられていた情報が公開されるようになっただけのことかもしれない。このようなお手紙をもらったら、重版、文庫化、電子書籍化など機会があれば(なかなかその機会がないのが残念なのだけれど)、かならず直しますと心のうちでお約束して、付箋を貼り、赤字を入れておく。貝殻を踏んだ痛みと、宝石を見逃さずにすんだ安堵ともに。