近くて遠い父子  『夜の少年』とネトウヨの父

 「好きな人」が「好きだったひと」になってしまうのは悲しい。変わってしまったのは相手の方かもしれないし、自分の方かもしれない。恋には心変わりによる別れがある。だが、家族はそう簡単に別れられない。

 鈴木大介著『ネット右翼になった父』(講談社新書)は、ヘイトに走った父を受け入れられないまま、父が亡くなり、父の足跡を追いかけるノンフィクションだ。なぜ、いつから。いや、そもそもネット右翼の定義とは……と著者は問い続ける。父はもう死んでいるし、息子は自分が生まれる以前の父の若い時を知らない。そして、父の知人に会い、姉や母の話を聞き、いくつもの取材を重ね、仮説と検証を繰り返しながら父に出会いなおし、「父は父だった。父でしかなかった」という結論に達する。

 父がすでにいない以上、著者の想像は想像でしかないのかもしれない。父からの返信はないのだ。だから読者は著者とともに途方に暮れる。一方、フィクションならば、父と息子双方の視点をえることも可能だ。プティマンジャン著『夜の少年』(松本百合子訳、早川書房)は、小説であり、右傾化していくのは息子。それを受け入れられないのは左派の父の側だ。主人公は妻を亡くした男。気がつくと息子は極右団体に入り、ついには左派過激派とのトラブルに巻き込まれ、ひとを殺してしまう。主人公はときに息子を嫌悪し、もうひとりの息子を守ろうとし、どこで育て方を間違ったのかを自問する。「夜はいつも、記憶のなかにいる彼を抹殺しようと努力して過ごした。しかし、彼はいつも目の前にいて、上半身裸で弟を抱きかかえ、ゴム製のプールから飛び出して楽しそうに踊っていた」。犯罪者になっても、息子は息子なのだ。物語は獄中の息子からの手紙によって結ばれている。いや、その手紙は、確かに父と子の結びつきを示すものだが、物語は終わらない。「なぜ」という問いは残るからだ。

 ふたつの作品は、仮説と検証を繰り返すノンフィクションと詩的な文体で描き出されるフィクション、息子から見た父、父から見た息子、さらにはフランスと日本という違いを超え、同じ苦悩をあぶりだす。どれほど近くにいても他者の人生を変えることは難しいということ、どんなに思想や生き方が違っていてもやっぱり嫌いにはなれないし、プールの思い出も、家族で食べたラーメンの思い出も消えはしないということ。死という離別を経て見えてくるもうひとつの姿もあるということ。

 『夜の少年』の原題はCe qu'il faut de nuit。これは、シュペルヴィルの詩「Vivre encore」という詩の冒頭部分、「Ce qu'il faut de nuit/Au-dessus des arbres」から取られている。夜に染まる家族を救おうとしても、夜はなくならない。そこには夜を必要とするひといるからだ。遺された者は、なぜと問いかけながら、昼と夜を繰り返しながら生き続ける。