翻訳雑記

私は私の訳したもので出来ている、のか。

永田さんの訳したものが好き、と言って下さる人がいる。素直にうれしい。それなのに、「なぜこの本を訳そうと思ったのですか」と問われると、「編集者から頼まれたので」などと素っ気なく答えてしまい、読者をがっかりさせてしまったこともある。実際のとこ…

解毒剤としての翻訳 『十六の言葉』によせて

ナヴァー・エブラーヒーミー著「十六の言葉」(*)を読んで、「やられた!」と思った。ひとつには、終盤、とある一行で物語がひっくりかえるその仕掛けに息をのんだせいだ。だが、それについてはここではふれない。これから手にするひとたちから、初読の驚き…

哲学はなにが「難しい」のか 坂道と階段

最初に哲学の入門書を引きうけたとき、しり込みする私に担当編集者は言いました。「専門書ではないし、あくまでも一般教養の範囲だから大丈夫」と。確かに、原書を読んでみると難しい言葉はあまりなく、日常語で書かれています。よしこれならと思ったものの…

怖くはないですか 

「怖くはないですか」とそのひとは問い、「怖いですよ。でも……。」と私は答えた。場所は中華料理屋。翻訳教室の懇親会。受講生の方からの質問は「フランス語の翻訳をしていても、舞台がフランス以外の国だったり、登場人物が外国人だったりすることがある。…

アルス・ロンガ 運ばれるもの

きっかけは坂本龍一氏の追悼番組だった。「東風」「チベタンダンス」、さらには沖縄民謡、アフリカの民族音楽。エキゾチックな魅力をちりばめた、彼の作品が、「文化の盗用」と言われずにきたのは、そういう時代だったからなのか、彼が異国のアーティストに…

レーモンド建築にみる翻訳のありかた

先月、武蔵野市が期間限定で旧赤星鉄馬邸を公開していたので、行ってみた。アントニン・レーモンド設計ということで注目が集まっていたが、実際のところ、設計時のまま残っているのは一部分だけで、GHQの接収、ナミュール・ノートルダム修道女会への寄贈と所…

誤字の取りこぼし 貝殻と宝石 

新しい訳書が出ると人並みに評判が気になり、ついインターネットを検索してしまう。なかには誤植、誤訳のお指摘もある。もちろん、ご指摘には感謝しているし、おのれの不注意、力不足を恥じつつ、そしてまたそこまで丁寧に読んでくれたことを思うと、嬉しく…

切りては結ぶ「と」のはなし 一文字の翻訳論

仕様の問題か、書き手の問題かはわからないが、ツイッターを見ていると、時々、それが本人の弁なのか、引用なのかわかりにくいことがある。140字という制限のなかで、鍵括弧(「」という記号)や「~によると」といった説明を省きたくなるのはわかる。だが、…

アルマンの弁明 文学の楽しみ方

NHKの朝のドラマ「カムカム・エヴリバディ」でヒロインの夫ジョーが髪結いの亭主よろしく働かずにいることが話題になりました。もっと前に放送された「あぐり」では、ヒロインが美容師ですから、エイスケさんはまさに「髪結いの亭主」でしたっけ。 ところで…

続『私が本からもらったもの』 空気の本、果実の本

石井桃子さんの言葉に 「子どもたちよ 子ども時代をしっかりとたのしんでください。おとなになってから老人になってからあなたを支えてくれるのは子ども時代の『あなた』です」(*)というものがあります。今になって思うと、私は恵まれた子ども時代を過ごし…

人馬一体 翻訳と競馬

大学生の時はじめて競馬場に行きました。当時まだ女性がひとりで競馬場に行くことは珍しかったと思います。赤いメンコのダイナアクトレスが好きでした。牡馬に混ざって奮闘する「彼女」に自分を重ねていたのかもしれません。最近は女性ファンも増えたし、女…

他者の声で話すこと 翻訳と当事者性 

NHKのワールドニュースを見ていた時のこと、画面では女性キャスターがしゃべり、通訳の音声は男性の方でした。するとたまたま通りかかった夫がそれについて「女性が男性の声しゃべっているような気がして、なんか違和感がある」と言うのです。私にしてみれば…