アルス・ロンガ 運ばれるもの

 きっかけは坂本龍一氏の追悼番組だった。「東風」「チベタンダンス」、さらには沖縄民謡、アフリカの民族音楽。エキゾチックな魅力をちりばめた、彼の作品が、「文化の盗用」と言われずにきたのは、そういう時代だったからなのか、彼が異国のアーティストに敬意をもって接していたからなのか、はたまた、その才能があまりにも秀でていたから、単なる借り物ではなく独自の音楽として作品をなしているからなのか。どこまでがオマージュやインスピレーションで、どこからが「盗用」なのか。

 翻訳というのは異文化をいかに取り入れるか、そこから何を学べるかという問いだと思いながら、翻訳の仕事をしてきて早四半世紀となる。だから、文化の盗用という言葉を聞くたびに、困惑してしまうのだ。たとえば、ゴッホに浮世絵が影響を与えたとか、ルイ・ヴィトンモノグラムは日本の家紋をまねたものだとか、そんな話をするとき、「文化の盗用」を責めるというよりも、むしろ誇らしげだったのはつい昨日のことではないだろうか。

 蔑みや差別を伴う引用や、まったくの盗作、剽窃はもちろんあってはならないことだが、現在、「文化の盗用」と言われていることの一部(すべてとは言わぬ)は、「文化の借用」であり、利子がついて戻ってくるまで待てなかっただけなのではと思う。いや、反対に、借りてきた側が返す意思を示してこなかったせいなのかもしれない。「文化の借用」に証書はなく、期限も利率も明示されていない。自分たちの文化が広く知られることで、何らかのメリットが返ってくるまでには時間がかかる。「借用」なのか「盗用」なのかを決める条件は、敬意の有無、もしくは対等な関係があるかどうかだ。

 長い搾取の歴史が信頼関係を成立させなくなってしまったという側面は否めない。たとえば、カナダで上演反対署名が起こった時、署名活動の中心人物に会いにいったというムヌーシュキンのように、対話や交流による解決を目指す態度はこれからも求められていく(*)。その一方で、あまりにも短いタイム・スパンで文化をジャッジしようとする流れは大きな危険をはらんでいるように思う。そこには100年先へのまなざしが感じられないのだ。

 冒頭に引いた坂本龍一の好きな言葉として『Ars longa, vita brevis 芸術は長く、人生は短し』という言葉が訃報とともに世界に広がった(**)。盗用は罪と罰で裁かれることが終点となる。だが、必要なのは未来へと「運ぶ」運用ではないだろうか。

 

*カロリーヌ・フレスト『傷つきました戦争』(堀茂樹訳、中央公論新社)ムヌーシュキンの努力は実を結ばず、上演中止になったのだが、彼女が「動いた」ことには大きな意味があると思う。

**坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社)