SNSを始めるとき、周囲から「実名を使うのはあぶない」と言われた。かといって、自分の訳書の紹介もしたいし、友人たちに私のことだと気づいてもらわないと不便だ。というわけで、苦し紛れにかつて句会で使っていた俳号もどきの永田永をアカウント名としてツ…
エリセ監督の最新作『瞳をとじて』には犬が出てくる。映画を撮らなくなった主人公が家に帰ると尻尾を振って出迎えるのは犬である。イーストウッド監督の『グラントリノ』でも孤独な主人公に寄り添う犬がいた。 犬の映画は好きではないが、映画の犬は好きであ…
ランボーは、10代で詩集をだし、20代で詩を捨て、30代で死んだ。だが、もし、ランボーが死の間際に再び詩の世界に戻っていたら、と想像する。いや、もし彼の遺作が見つかったら? それは十代の作品と明らかに違うものだろう。天才少年のままでいてほしかった…
永田さんの訳したものが好き、と言って下さる人がいる。素直にうれしい。それなのに、「なぜこの本を訳そうと思ったのですか」と問われると、「編集者から頼まれたので」などと素っ気なく答えてしまい、読者をがっかりさせてしまったこともある。実際のとこ…
グレーが好きになったのはいつからだろう。ロアシアン・ブルーやワイマラナーの毛色は美しい。パリに住んでいた時も灰色の冬の空は決して嫌いではなかった。黒か白か、零か百かではないニュアンスはやさしさがあっていい。 10代の頃からローランサンが好き…
ナヴァー・エブラーヒーミー著「十六の言葉」(*)を読んで、「やられた!」と思った。ひとつには、終盤、とある一行で物語がひっくりかえるその仕掛けに息をのんだせいだ。だが、それについてはここではふれない。これから手にするひとたちから、初読の驚き…
ウクライナとロシアの戦争も、イスラエルによるパレスチナへの非道な攻撃も一日も早く終わればいいのにと思っています。でも、「どうしてこんなひどいことを」とつぶやく度に、「人間だから」だという答えが浮かぶのです。だって、動物は保身と捕食以外に同…
悪女ってなんでしょう。ゴーティエの『死霊の恋』を訳していてふと思いました。クラリモンドは死霊(La morte 今でいうゾンビとはちょっと違うので混同しないでね)にして吸血鬼、高級娼婦として男を誘惑し、その血を吸う怖い女です。でも、タイトルは『死霊の…
最初に哲学の入門書を引きうけたとき、しり込みする私に担当編集者は言いました。「専門書ではないし、あくまでも一般教養の範囲だから大丈夫」と。確かに、原書を読んでみると難しい言葉はあまりなく、日常語で書かれています。よしこれならと思ったものの…
「怖くはないですか」とそのひとは問い、「怖いですよ。でも……。」と私は答えた。場所は中華料理屋。翻訳教室の懇親会。受講生の方からの質問は「フランス語の翻訳をしていても、舞台がフランス以外の国だったり、登場人物が外国人だったりすることがある。…
登場人物に名前はない。それなのにこんなに感情移入できるのはなぜだろう。クララ・デュポン゠モノ『うけいれるには』(松本百合子訳、早川書房)は、障害のある子どもの成長と死を兄、姉、弟がどう「うけいれた」のかをたどる小説だ。個々の名が示されず、…
きっかけは坂本龍一氏の追悼番組だった。「東風」「チベタンダンス」、さらには沖縄民謡、アフリカの民族音楽。エキゾチックな魅力をちりばめた、彼の作品が、「文化の盗用」と言われずにきたのは、そういう時代だったからなのか、彼が異国のアーティストに…
マネキンの着ているガウチョ・パンツをほしいと言ったら、店員さんがその場でマネキンの着ていたものを脱がし始め、なんだか心がざわざわした。その手つきが、母の下着を脱がすヘルパーさんの所作を思い出させたせいだと気づいたのは帰宅してからだった。ど…
「好きな人」が「好きだったひと」になってしまうのは悲しい。変わってしまったのは相手の方かもしれないし、自分の方かもしれない。恋には心変わりによる別れがある。だが、家族はそう簡単に別れられない。 鈴木大介著『ネット右翼になった父』(講談社新書…
先月、武蔵野市が期間限定で旧赤星鉄馬邸を公開していたので、行ってみた。アントニン・レーモンド設計ということで注目が集まっていたが、実際のところ、設計時のまま残っているのは一部分だけで、GHQの接収、ナミュール・ノートルダム修道女会への寄贈と所…
宗教をひたすら避けていた時期があった。膝のじん帯を痛め、動けない私に池田大作の本をどんと送り付けてきた学会員の伯父が嫌いだった。大学に進むときもミッション・スクールは避けた(今にして思えば立教にも上智にも好きな先生はいたのだが)。それなの…
タンポポの仏語名はダンデライオン(dent de lionライオンの歯)と聞くと勇ましいが、もうひとつの言い方、ピサンリ(Pissenlit)は、おねしょ(Pisse en lit) という意味も重ねもつ。おねしょで叱られた記憶はないが、トイレを探す夢は見る。トイレを探し…
映画『素晴らしき哉、人生!』(*)を見て、最後にふと、悪徳実業家のポッター氏は最後まで改心しなかったのだなと思った。そして、彼がどこかで罰をくらうのを期待していた自分に気づいてしまった。勧善懲悪のパターン化したドラマなど見飽きていたはずなの…
アンヌ・ヴィアゼムスキーが来日した時、シンポジウムのあとのQ&Aで、ゴダールのことばかり質問を重ねる参加者があり、苛立ったことを覚えている。そのとき上映されたのはガエルの『秘密の子供( L'Enfant secret)』で、ちょうど彼女の小説『Hymnes à l'…
今年の元日のこと。「賀状にメールアドレスがあったので」と。御年90歳の伯父上から長文のメールが来た。拙訳書『京都に咲く一輪の薔薇』(*)を読んだというのだが、どうも「はじめて京都に来たフランス人の主人公」を「京都で生まれ育ち、久しぶりに帰郷し…
『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』(*)、旅先からの絵葉書を受け取ったかのように胸躍らせながら、拝読いたしました。そしてお返事を書きたくなりました。ご無礼かもしれませんが、「三喜さんと歩調を合して大股に歩き」、「対等ということはそれほどむずか…
『ル・クレジオ、文学と書物への愛を語る』(*)にこんな記述がありました。 「他に類がないほど道徳に凝り固まった小説―ーフランス文学では十七世紀にラ・ファイエット夫人によって書かれた『クレーヴの奥方』でしょうーーであっても、教訓はやはり曖昧です…
怒るのが下手なのでしょう。恐怖や嫌悪が先に立ち、まずは逃げてしまいます。でも、それで終わりとはいかず、胸の動悸が収まった頃にもういちど現場に戻ってしまうことがあります。あれはいったいなんだっただろうという好奇心とともに。 6月頃でしたでしょ…
宮崎駿監督の「紅の豚」を見るたびに胸が苦しくなるシーンがある。男たちが出稼ぎに出て、残った女ばかりで飛行機を造るシーンだ。若い女性設計士ピノの設計した飛行機を造るために、親戚中の女たちが集められる。飛行機=男のものという常識を翻す女性たち…
更年期だ、老眼だと落ち込む私を知ってか知らずか、身につまされる本をW氏からいただいた。「作家の老い方」(草思社)という本で、芭蕉から穂村弘まで老いをテーマにした詩歌、エッセイなどがずらりと並ぶアンソロジーだ。堀口大學、杉本秀太郎、吉田健一、…
フランスにゆくまで、私にとってひまわりは「花」だった。だが、フランスのスーパーの食品売り場をうろうろしていると、自炊を始めたばかりの私の目に「L’huile de tournesol」というひまわりの花の絵が描かれたラベルが目に入った。ヒマワリ油。映画「ひま…
「かわいい」という言葉は本来、「小さくて弱い者」に向けられるものである。つまり、象は仔象をのぞき、「かわいい」とは言い難い。だからこそ、象は「かわいそう」なのである。大きく、賢く、ガネーシャや普賢菩薩の乗る象など神格化される一方、虎の威を…
2022年7月29日岩波ホールが閉館しました。高校生の時から何度も通った映画館です。映画「女の一生」が公開された折、試写会や「友の会」の講演に呼んでいただいたのも良い思い出です。その一方で、しばらく前から「友の会」会員や、観客の平均年齢の高さ(い…
新しい訳書が出ると人並みに評判が気になり、ついインターネットを検索してしまう。なかには誤植、誤訳のお指摘もある。もちろん、ご指摘には感謝しているし、おのれの不注意、力不足を恥じつつ、そしてまたそこまで丁寧に読んでくれたことを思うと、嬉しく…
父が亡くなってしばらく、「死」という字すら怖くなった。死亡や死去と書くことすらできず、「没」や「逝去」という表現に逃げた。亡くなるが「無くなる」や「失くなる」に誤変換されるたびに虚を突かれた。そうやって逃げ回ったとて死から逃れることはでき…