自分で決めたから クレーヴの奥方と手袋

 『ル・クレジオ、文学と書物への愛を語る』(*)にこんな記述がありました。

「他に類がないほど道徳に凝り固まった小説―ーフランス文学では十七世紀にラ・ファイエット夫人によって書かれた『クレーヴの奥方』でしょうーーであっても、教訓はやはり曖昧です。クレーヴの奥方はヌムール公の愛を拒みますが、それは宗教的な信念からだけではありません。フランスの十六世紀の貴族階級では、自らの幸福を犠牲にしてまで与えられた役割を果たさなければ、社会的な地位を失うことになったからです。この奥方は永遠の生に希望を託したのではなく、自分の階級的特権のための代価を払ったにすぎません」

 おやおや。ル・クレジオの作品はすべて読んでいるわけではないけれど、好きな作品がいつもありますし、書評も書かせてもらいました(**)。でも、でもね、『クレーヴの奥方』についてだけはノーベル文学賞作家に反論したくなってしまいました。

 もし、あの作品が「道徳に凝り固まった小説」に過ぎないのなら、コクトーやオリヴィエラが映画化したでしょうか。そもそも「良家の子女の愛読書」であったのは確かですが、刊行当初は匿名で刊行せねばならないほどの「スキャンダル」だったのです。もちろん、作品は著者の意図を離れ、時代によって解釈を変えてゆきます。今では、むしろ、自分で考え、決断する女性の姿、傍からどう見られようと自分を貫く女性像として、現代性を見出す読み方も可能なのです。たとえば、向田邦子のエッセイに「手袋」という話があります。どんなに寒くて手がかじかんでも、気に入った手袋が見つかるまで手袋を買わずに過ごしたというエピソードのあとに彼女はこう書きます。

「自分の気性から考えて、あのときー二十二歳のあの晩、かりそめに妥協していたら、やはりその私は自分の生き方に不平不満をもったのではないか」(***)

 クレーヴの奥方にはわかっていたのです。ヌムール公と再婚したところで、自分が幸せになれないことを。ヌムール公は心変わりするかもしれません。何より、クレーヴ公の存在が影となってつきまとうことでしょう。クレーヴ公が生きていれば、結ばれることがなかった人と一緒になれば、誰かの不幸を下敷きに幸せになるようで彼女は自分が許せないのです。社会的な制約が理由ではなく、「永遠の生」どころか、「永遠に続くはずのない恋の終わり」や「未来の自分の姿」が見えてしまう聡明さゆえの決断だったと私は思うのです。

 

(*)ル・クレジオ著、許鈞編、鈴木雅生訳『ル・クレジオ、文学と書物への愛を語る』(作品社)

(**)図書新聞2022年10月8日号(3561号)

(***)『向田邦子ベストエッセイ』(ちくま文庫)所収「手袋」