放尿記 薫とレーナ

 タンポポの仏語名はダンデライオン(dent de lionライオンの歯)と聞くと勇ましいが、もうひとつの言い方、ピサンリ(Pissenlit)は、おねしょ(Pisse en lit) という意味も重ねもつ。おねしょで叱られた記憶はないが、トイレを探す夢は見る。トイレを探してうろうろ歩き、これでは放浪記ならぬ放尿記である。八十一歳で亡くなった私の母は、ある時期から「粗相」をするのを極端に恐れて、外出しなくなり、そこからめっきり足腰が弱ってしまった。もっと早く相談してくれれば、大人のおむつでも何でも対策はあったのに、と思ったが後の祭り。昭和の女にとって、尿意の話は実の娘にも打ち明けられぬほどのタブーだったらしい。

 松家仁之『泡』(集英社)にも、主人公のひとり、薫が海のなかで尿意と戦う場面がある。薫は「浜辺からこんなに離れているのだから、ここでしてもかまわないだろう」と思いながらもどうしても放尿できない。それでも、さらに沖に流され、遭難の危機が迫るうちに、恐怖感とともに解放が訪れる。「さきほどまでどうやっても出なかったものが海のなかに染みだし、やがて勢いよく放たれてゆく」。そして、ようやく岸に戻ると、学校に行けなくなっていた青年は変わり始めるのだ。

 放尿の一瞬には諦めと開き直りと解放がある。どんなにお上品ぶっても所詮、動物と同じ生理的な欲求に抗えないという諦め、いやいや、生理現象なのだから仕方ないという開き直り、そして、もうどうにでもなれと思えばどうにでもなるのだ。

 ウーヴェ・ティム『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』(浅井晶子訳、河出書房新社)にも豪快な放尿シーンがある。第二次世界大戦末期、ドイツ敗戦の混乱のなかでレーナは脱走兵ブレ―マーとの出会いを経て、ソーセージ屋を開く決意をする。ソーセージの仕入れ交渉に成功した帰り、彼女は列車のなかで尿意を感じる。「ただ漏らしてしまわないようにとそれだけに集中していた。(…)彼女は電柱を数えることで気を逸らそうとした。三二七、三二八、三二九。(…)彼女は心底ほっとして、どんどん大きな声で笑った。なぜなら、ついに漏らしてしまったのだ。彼女の足を温かい水がつたい落ちた」そこに恥じらいはない。いや、恥じらいはあるのだが、それ以上に解放感が大きい。だから、何を笑っているのだと傍らの男に聞かれ、彼女は答える。「漏らしちゃったの」。さらに男が「ちびっちまうほどものすごい取引をしたのかい」と続けると、彼女は「そう、私、独立するの」と答えて、風に向かって顔を差し出すのだ。

 放尿の瞬間、ひとは動物や子供に戻る。それはひどく無防備な状態になることであり、たぶん、老母はそれが怖かったのだろう。かくいう私も、太宰治の『斜陽』に出てくる、お庭でにこにこと「おしっこ」できる貴婦人のお母さまに憧れつつ、女子トイレの長い列に並ぶのだ。