一人っ子から見た兄妹の姿  ローラと禰豆子

 子どもの頃、兄弟や姉妹のいる友人を羨んだことはありませんでした。むしろ、「一人っ子でかわいそう」と同情されることが嫌だったぐらいです。ところが、両親がふたりともこの世を去った時、私ははじめて兄弟がいないことを寂しく思いはじめました。

 映画『ローラとふたりの兄』(ジャン゠ポール・ルーヴ監督)でも、兄妹は両親を失い、それぞれが家庭をもっても、両親の墓の前で会うことでつながっています。長兄が「子どもの頃は一歳の歳の差が大きかっただろう」と言い、弟、妹は兄を頼ってもいいのだという場面があり、思わず、『鬼滅の刃』(アニメ版)の炭次郎を思い浮かべたのです。『鬼滅の刃』のなかで炭次郎は「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」と言います。ところが、「ローラとふたりの兄」では末っ子のローラがいちばんしっかりしていて、お兄ちゃんはあまり頼りにならないのです(映画『寅さん』に似ているかも)。それでも、彼女がつらいとき最初によりそってくれたのは二人の兄でした。「鬼滅の刃」においても、妹の禰豆子は兄から守られる存在でありつつ、ともに闘う相棒でもあるのです。そこにあるのは、フランス語のfrère/sœur 、英語の brother/sister に見られるような上下関係のない同胞意識ではないでしょうか。

 親子は対等にはなれないタテの関係です。恋愛や友情は対等なヨコの関係ですが、ある種の選択と努力を必要とするものであり、片思いや絶交もありえる関係です。そう考えると、兄弟というのは、上下がありつつも、ときに対等になり、助け合う関係として特別なものなのかもしれません。

 ローラは物語の最後に「血のつながらない」養子を迎えます。「鬼滅の刃」の兄妹も血縁を介さない「家族」のような仲間を得てゆきます。コロナ禍で「他人」と会いにくい状況の中、「家族」への回帰が感じられます。でも、もう昔のような家族観を受け入れることも難しい。結婚はしてもしなくてもいいし、男女がいたら必ず恋愛がはじまるわけでもありません。少子化が進み、一人っ子の数は増え続けています(ちなみに、「ローラとふたりの兄」のルーヴ監督も一人っ子ですとか)。そんななかで、性格が違っても、趣味が一致しなくても、助け合う関係という意味でシスターフッドという言葉が流行し、兄弟を主人公にした作品が目を引くのは、新しい形の人間関係を模索しているからのような気がするのです。