野十郎のロウソク 科学と詩情をつなぐもの

 洋の東西を問わず、お灯明と言っていいのでしょうか。信者でもないのに、教会に行ってロウソクの光を眺めてるのが好きでした。年を重ね、お誕生日のケーキにロウソクを並べることはなくなりましたが、この季節になるとキャンドルの明かりに心惹かれます。

 高島野十郎(1890-1975)は不思議な画家です。その生涯で燃えるロウソクの絵を40点も描きました。その絵を見ていると、炎のなかには何色もの色があり、ゆらゆらと揺れる形の複雑さに驚かされます。そういえば、ファラデーも「ロウソクの科学」で、少年少女にロウソクの炎を観察させ、「燃焼、つまり炎だけがつくり出せる美しさと明るさが見られるのです」(*)と語っていました。じっと炎を見つめる画家の目は、その観察力において科学の目と決して遠いものではないのです。

 もっとも、野十郎の絵には科学だけでは説明できないものがあります。ロウソクを見ている人の頭は、燃焼という現象を科学でとらえるかもしれませんが、心はそこに別のものを見ようとしてしまうのです。

 

焔よ

火の鬣よ

お前のきらめき、お前の歌

お前は滝のようだ

お前は珠玉のようだ。

お前は束の間の私だ。

 

と永瀬清子は詩に書きました(**)。火は「つかの間」のものなのです。実をいうとこの詩に登場する焔は、台所のかまどの火なのですが、ロウソクの火となるとさらに時間は限られます。バシュラールは「焔は上に向かって流れる砂時計である」と書きました(***)。ロウソクには終わりがあります。燃え尽きるまでの時間がすべてです。落語「死神」でも、寿命は燃えつけるロウソクで表現されています。してみると、野十郎が炎を描いたのは、時間を止め、永遠に迫る行為だったのかもしれません。画家の目は、詩人の目でもあり、哲学者の目でもあったのでしょう。

 今年もあとわずかとなりました。燃え尽きることのないロウソクの絵を見つめ、しばらく時間を忘れたくなる年の瀬です。皆さまどうぞよいお年を。

 

*ファラデー「ロウソクの科学」(竹内敬人訳、岩波文庫

**永瀬清子「焔について」(「現代詩文庫 永瀬清子詩集」所収、思潮社

***ガストン・バシュラール「蠟燭の焔」(澁澤孝輔訳、現代思潮社

 

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