切りては結ぶ「と」のはなし 一文字の翻訳論

 仕様の問題か、書き手の問題かはわからないが、ツイッターを見ていると、時々、それが本人の弁なのか、引用なのかわかりにくいことがある。140字という制限のなかで、鍵括弧(「」という記号)や「~によると」といった説明を省きたくなるのはわかる。だが、典拠が明示されていないことで、誤解を受けそうな書き方が多いことは事実だ。

 書き言葉では鍵括弧が引用であることを読者に警告する。だが、音で聞く場合、目に見えない「括弧閉じる」を表すのが、助詞の「と」になる。ここでいう「と」とは、「彼(彼女)は……と言った」など引用やセリフのあとの格助詞「と」である。そこを強く発音すれば、ここまでは某さんの言ったことで、地の文ではありませんよと強調することになるし、ここをぼかせば、自由間接話法(文学作品にしばしば見られる鍵括弧なしに心象を語らせる話法)のように、会話部分と地の文の境界はあいまいになる。

 高遠弘美氏は「太夫の語りありてこそ̶̶竹本住大夫師に教えて頂いたこと」にて、七世竹本住大夫による『と』の使い分け、ニュアンスの付与について書いている(*)。「と」の強弱、長短が間をつくり、緊張感を呼び、聞き手に考えさせる余白をつくるというのだ。また、会話と会話の「橋渡し」をするものでもある。

 つまり、「と」の役割は主体の区別を明示し、発話者と引用者、主観(登場人物の発言)と客観(三人称による地の文)を切り離すことだけではない。「戸」が開くためのものであり、閉じるためのものでもあるように、格助詞「と」は切るだけではなく、結ぶ役目も担っている。そもそも、翻訳という行為そのものが、「原書には……書いてありますよ」と示すことであり、訳者としては、この「と」を意識しながらも(あくまでも作品は原著者のものであり、原著者と訳者は別人格だ)、読者にはあまり「と」を意識させないところまでもっていかなくてはならない(読者は、訳文ではなく「作品」を読むのであり、訳者が悪目立ちするのも厄介だ)。

 さらに言えば、助詞の「と」には、「&」「~とともに」の意味の「と」もある。翻訳書は著者「と」訳者がつくるものだということもできる。切りては結ぶ格助詞「と」の二面性は、翻訳の本質に近いのではないだろうか。たかが、ひらがな一文字とはいえ、「と」はとても重要なのだ。

 

(*)高遠弘美著『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』(講談社、2013)所収「太夫の語りありてこそ̶̶竹本住大夫師に教えて頂いたこと」。また、同書第十章「住太夫三夜」にも、「と」の重要性についての記述がある。