モーパッサン「首飾り」の向こう側

モーパッサン「首飾り」は、首飾りを借りる女の物語です。じゃあ、貸した女の側はどうだったのかしら、というわけで妄想してみました。モーパッサン「首飾り」って、どんな話? という方には、青柳瑞穂訳「モーパッサン短編集2」(新潮文庫)、高山鉄男訳「モーパッサン短篇選」(岩波文庫)に収録されている他、平岡敦訳「首飾り」理論社もあります。

                  ★

 ネックレスなんて貸すんじゃなかった。断ればよかったのだ。理由なんていくらでもある。修理に出しているとか、その日は私も出かける予定があって自分で使うのよとか。それなのに、あの時、ついいい顔してしまった。「ええ、いいわよ。いつ取りに来られる?」なんて言ってしまった。
 でも、電話を切って彼女がうちに来るまでの間に、いろいろ考えたのだ。返ってこなかったらどうしよう。これは母からもらった大事なネックレスなのに。壊されてしまったらどうしよう。彼女の家には小さな子供がいる。抱かれた母の胸元で、幼児がネックレスに手を伸ばすなんてよくある光景ではないか。
 迷いながらも真珠のネックレスを入れた引き出しを開くと、赤い箱が目にとびこんできた。そこに入っているのは模造真珠のネックレス。本真珠に手が届かず、学生時代に購入したものだ。ちょっと見には本物と変わらない。貸すのはこちらにしようか。彼女は違いに気づくかしら。
 ピンポーン。
 インターホンが鳴り、彼女が玄関前に立っていた。
「ごめんね、急に夫の親戚が亡くなって。お姑さんの手前、きちんとした格好でいかないと叱られそうで。でも、私、いかにもニセモノですっていうパールしかもってなくてね。あなたなら、本物をもってそうだし、家も近いし、ちょっと貸してもらえないかとダメモトで電話したのよ。ホント、助かったわ」
 私の手には模造真珠の赤い箱があった。
「ありがとう。時間がないから、ここで失礼するわ。お礼はまた今度で許してね」
 彼女は私の手から奪うように箱を取り、走り出していった。家の前に車が停まっており、後部座席にはチャイルドシートに乗せた息子が待っているのだ。
 ほんとうにもう強引なんだから。そもそも、他人にネックレスを借りようなんて発想があさましいのよ。走り去っていく車を見送りながら、自分にそう言い聞かせた。

 ネックレスはそのまま返ってこない。催促しようかとも思ったが、まがい物を渡した後ろめたさもあり、つい、電話をかけそこねた。何度か近所のスーパーで彼女を見かけたが、彼女は気がつかないふりをしてそそくさと店を出て行った。私は避けられているのかもしれない。もしかして、彼女はあれが模造真珠だと気付いたのだろうか。お姑さんの前で恥をかかされ、怒っているのだろうか。こんな安物なら、このままもらってもいいと考えたのだろうか。模造真珠を貸すなんて、自分が見くびられたとでも思ったのだろうか。いやいや、考え過ぎだろう。ただちょっと忙しくて時間がないだけなのだ。そのうち、思い出して何食わぬ顔で連絡してくるに違いない。
 だが、彼女から連絡はこず、やがて、いつのまにか彼女はこの町を離れ、私はあのネックレスのことは忘れていた。いや、正確には忘れようとしてきた。
 ある日、ポストに小包が入っていた。差出人は彼女の名前だった。なかには布にくるまれた真珠のネックレスが入っていた。光沢からするに本真珠だ。手紙が添えてあった。
「遅くなってごめんなさい。子供が指をからめてひっぱった拍子に糸が切れ、だいじなネックレスをだめにしてしまいました。拾いあつめた粒だけで何とか作り直そうとか、素直に謝ろうとか、お金で弁償しようとか、いろいろ考えるうちに、つい逃げてしまいました。ようやく子育ても一段落し、パートでお金をためてこれを買いました。許してください」
 私はあのとき本物を貸すべきだったのだろうか。