物語を読む わたしの伯父さんと『物語のカギ』 

 今年の元日のこと。「賀状にメールアドレスがあったので」と。御年90歳の伯父上から長文のメールが来た。拙訳書『京都に咲く一輪の薔薇』(*)を読んだというのだが、どうも「はじめて京都に来たフランス人の主人公」を「京都で生まれ育ち、久しぶりに帰郷した主人公」だと勘違いしている節があり、「三日見ぬ間の桜」は俳句ではなく「男子、三日会わざれば刮目して見よ」が元ではないかなどの「ご指導」のすえ、「改稿の際にはご相談ください」と結ばれていた。あらゆるご指摘、ご感想は真摯に受け止めることを信条としているが、身内にはつい感情的になってしまう。まずは「ちゃんと読んでないくせに!」と憤り、SNSで愚痴って友人に慰められ、さて、なんと返信しようかと思ったところでふと怖くなった。「読んでいない」のではなく、「読めていない」のかもしれないと思ったのだ。

 文字を読むことと文学を読むことは同じではない。実際、文字は読めるし、解説書や契約書は読めるが、小説は苦手だというひとは少なからずいる。私自身、鉄棒の逆上がりができなかったし、自転車にも乗れないので、「できない」ことを理解されないつらさはわかる。コツをつかみ、環境が整えば読めるようになる場合もあれば(国語教育に求められるのはそういうことでしょう)、無理に読まなくても幸せに生きられるなら、それもありだと思っている。いや、むしろ、「読める」ことのほうが驚くべきことなのだ。

 実際、物語を読むにはそれなりの技術が必要となる。それに気づいたのは、スケザネさんこと渡辺祐真さんの著書『物語のカギ』(笠間書院)のおかげだ。スケザネさんはこの本で、その技術を惜しみなく公開している。そしてまた、この本のおかげで、読めないひとがどこでつまずくのかも見えてきた。カギをもっていない人は、伏線という隠しアイテムを見つけられなかったり、回想や未来の話で時系列を見失ったり、突然のモノローグに誰が喋っているのかわからなくなったりして迷子になってしまう。そこで投げ出してしまう人もあれば、そこを強行突破しようとして誤読という穴に落ちてしまう人もいる。

 私自身、翻訳をするときは、回想など時系列が飛ぶ場合は、ざっくりとでも年表のようなものをつくり、人物相関図、ときには家の間取り図までつくる。キーワードを書きだし、あれこれとノートをとる。ふだんの読書でも付箋を使うことは多い。最近、ドラマや映画の公式サイトでは、人物相関図やあらすじが公開されているが、それに等しい作業を多くの読者は頭の中でやっているのだろう。

 こうなるとむしろ、文学を楽しめるというのはそれだけで一つの才能であり、奇跡のようなことだと思えてくる。その後のやりとりで、伯父上はまだまだお元気そうだとわかったものの(要は「お前の本買ってやったぞ、読んでやったぞ」と言いたかったよううだ)、私とて、いつかとつぜんの病気や事故で物語が読めなくなる日がくるかもしれない。小説を読める、楽しめるという幸せを存分に味わっておかなくては。

 

(*)ミュリエル・バルベリ『京都に咲く一輪の薔薇』(早川書房