亡きひととともに生きる ボバンとオルヴィルール

   宗教をひたすら避けていた時期があった。膝のじん帯を痛め、動けない私に池田大作の本をどんと送り付けてきた学会員の伯父が嫌いだった。大学に進むときもミッション・スクールは避けた(今にして思えば立教にも上智にも好きな先生はいたのだが)。それなのに、フランス留学中、気がつくと私は教会で長い時間を過ごしていた。そこには信者でなくても座れる椅子があった。

 クリスティアン・ボバンの作品は私にとって、この椅子なのだ。ボバンの代表作にして、数少ない邦訳作品のひとつ「いと低きもの」(中条省平訳、平凡社)は、聖フランチェスコの生涯を題材とする。この本の冒頭、「子供は天使とともに出発し、犬があとから付いていった」とトビト書から引かれた一行を読んだとき、ボバンの作品表紙を飾ってきたエドゥアール・ブーバの写真のように、私には子供と天使の背中が見えた。犬の尻尾も見えた。信者ではない私にも。

 ボバンの作品はいつも詩のように語りかけてくる。透明で、断片的で、ときに流暢で、とらえどころがないのに、忘れられない。なかでも、彼が伴侶のジスレーヌを失ってからの作品は、さらにその深みを増し、キリスト教を超えてすべての死者とすべての遺族に寄り添うものとなった。彼は亡き妻を「La plus que vive」と呼ぶ。生きているときよりもさらに鮮明さを増すその存在感は、「不在の在」として輝きを増す(*)。やがて、彼は自分の親の老いを描き(**)、さらには自らにつても「自分の持ち分が減っていくにつれ、私はこの世をさらに愛するようになる」と告白する(***)。

 2022年11月、ボバンの訃報に際し、私はもう彼の新刊を書店で見ることがないことを惜しみ、寂しく思った。だが、不思議と悲しくはなかった。ボバンは生前からすでに、いつも死者とともにあったからではないだろうか。ユダヤ教のラビ、デルフィーヌ・オルヴィルールが「死者はいつもわたしたちのそばにいる。コートのなかに。笑い声のなかに」(『死者と生きる』臼井美子訳、早川書房)と書くように、宗教は宗派の違いを超え、死者とともに生き、遺る者のために祈ることなのだろう。こんどは私が亡き作家とともに、その言葉を反芻しながら生きていく番なのだ。すこしばかりの寂しさを抱えつつ、誰かの椅子になるために。

 

(*)La plus que vive , Gallimard, 1996

(**)La présence pure,Le temp qu’il fait, 1999 (「老いのかたち 澄みわたる生の輝き」戸部松実訳、中央公論事業出版)

(***)Autoportrait au radiateur, Gallimard, 1999