ルソーさんとわたし

『孤独な散歩者の夢想』の訳者あとがき用に書いてボツにした文章です。「うらあとがき」として古典新訳文庫のHPに掲載してもらったものを再掲、後日談も。

 

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 夜のお店に行ったことはないが、ホステスさんはこんな気持ちで働いているのではないだろうか。

 ある晩、年配の客がやってくる。客はルソーさんという。店のママさんによれば、「昔はえらかった」人らしい。このルソーさん、愚痴が多い。

「僕ねえ、病み上がりなんです。いや、病気じゃなくてね、転んだんです。犬にぶつかって。そしたら、皆、僕が死んだと思ったらしいんです。ひどいと思いません? 皆が僕のこといじめるんですよ。そんな、人の恨みを買うようなこと、した覚えないんですよ。それなのに……」

 水割り一杯ですでに泣きが入っている。

「僕はねえ、ほんとうに正直な人間で、嘘なんて、一回もついたことない。いや、一回だけあるか。うーん。一回だけじゃないなあ。あれ、ほかにもあるわ。うーん、どうしてだろう」

 とぼとぼと考えながら帰って行ったルソーさんは、翌晩もやってきた。

「あんた、スイス行ったことある? ビエンヌ湖って知ってる? 知らないよねえ。有名じゃないもん。いいとこだよ。誰もいなくて。ああ、帰りたくなっちゃったなあ。写真もないからさあ、自分で思い出すしかないんだよね」

 かくしてルソーさんは何度も店に現れ、一人語っては帰っていく。植物図鑑持参で、ウツボグサについて二時間語った日もあれば、欠けた指先を見せながら、子供時代のけがについてどこか自慢げに話した日もあった。私はそれをたたひらすら聞き、「うんうん、そうですよね」など適当に相槌をうちつつ、こっそり書きとめておく。

「僕ね、母を知らずに育ったんで、年上のひとに弱いんです。昔、世話になったご婦人がきれいな人でねえ。僕が今あるのは、あの人のおかげですよ」

ルソーさんは老いた目に涙をうかべていた。ハンカチを差し出す間もなく、おしぼりで涙をぬぐうとルソーさんは店を出て行ってしまった。

 

 以上は『孤独な散歩者の夢想』を訳しているあいだ、私のあたまのなかで繰り広げられ妄想である。その晩をさかいにルソーさんは店にこなくなった。「あの人最近こないねー」などと言いつつ、私はそれが彼の死を意味していることを知っている。愚痴っぽい爺さんだと思ったが、その言葉にはほかの人にはない深みや重みがあり、今更ながらに、「あの人、嫌いじゃなかったなあ。もっと、お話聞きたかったなあ」などと思う、だめホステスの私がいる。ルソーさん、パンテオン(偉人廟)の住み心地はいかがですか。こんどパリを訪れることがあったら、会いにゆきますね。

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 2013年冬、ルソーさんのお墓参りに行きました。パリのパンテオンです。ルソーさんの墓前で新訳のご報告をし、新しい読者ができましたよと呼びかけたのですが、ルソーさん、不機嫌そうなのです。あんなに饒舌なルソーさんが、何も話しかけてこないのです。
「ルソーさん、新訳のこと怒っているんですか」
「でかい声をだすな、ヴォルテールが聞き耳をたてている」
 ルソーさんはどうも、ヴォルテール墓所に近いことが不満のようでした。
「どうせなら、サン・ピエール島で永眠したかったなあ」
 いえいえ、きっと本音はシャンベリー、ヴァランス夫人のおそばに墓所がほしかったのです。
「でも、ルソーさん、名誉回復されてよかったじゃないですか」
「ふん、私がそんな名誉にこだわる男だと思っているのか」
「(思っています)」
 ルソーさんはさびしいのです。追放を解かれ、名誉を回復しても、たくさんの人に著作が読まれていても、テレーズがどんなに尽くしてくれても、孤児の心のまま、さびしいさびしいと泣いている子どもなのです。ルソーさん、あなたが偉人だからではなく、あなたが寂しい人だから、私はあなたが好きなのです。