夢は誰のもの ソーセキとタブッキ  

  「私の夢」といっても将来の夢ではない。私が今朝見た夢は、私の夢なのだろうか。目が醒めるなり、あわてて書き残そうとしたところで、もはやそれは私の夢ではない。記憶の底にぼんやり消えかかった夢、その夢の著作権も所有権も私にはない。いい夢を見たくても悪夢を見てしまう。誰かが私の夢にそっくりの小説を発表していても、「あなたそれは盗作ですよ」と言うこともできない。

 夏目漱石の『夢十夜』は、「こんな夢を見た」で始まる。もちろん誰もが小説として読むのだけれど、漱石は実際にこんな夢を見たのかもしれないと思うことは許されるはずだ。漱石は、夢の中で運慶を見た。だが、タブッキならば、運慶その人の見た夢を描いたかもしれない。タブッキの『夢のなかの夢』(和田忠彦訳、岩波文庫)は、ダイタロスの見た夢にはじまり、チェーホフや、ペソア、さらには他人の夢を分析していたフロイトが見た夢までがずらりと並び、さながら夢の博物館だ。博物館のなかを歩き、他人様の夢を鑑賞するうちにふと睡魔に襲われる。いや、ちがう、私は夢のなかで本を読んでいるのかも。