美女の誘惑 鏡花とゴーティエ

 このところ法事続きで、お坊さんと話をすることが多い。高野山で修業したという方に会うと、ついつい、泉鏡花の『高野聖』を思いうかべてしまう。いやいや、目の前にいる実直な御坊様が、美女に迷うとは思えないけれども。

高野聖』で、修行僧は山の奥に迷い込み、美女に誘惑される。蛭だのコウモリだの、中学生で読んだ時はただ恐ろしく、気持ち悪いとさえ思っただけで、その幻想的な美しさが理解できなかった。ところが、後年、仏語の先生に勧められて、ゴーチエの『死霊の恋』を読み、ようやく『高野聖』の面白さに気がついたのだ。

ちなみに『死霊の恋』では、修行中の神父が夢のなかの美女に恋をする。この美女、実は吸血鬼なのである。神父は、もう「生」も「聖」も諦め、美女と共に生きようと思う。このあたりも、『高野聖』と似ている。だが、強引で野趣を感じさせる『高野聖』の山の女にくらべ、吸血鬼クラリモンドの方は貴族的で、しおらしい。私のせいで、ごめんなさいねと言いながら、すべてを奪おうとするのだから、決して弱い女ではないのだが。

俗世に生きる私たちとて、ダイエット中のときに限って、美味しそうなお菓子をいただいたり、食事会のお誘いがあったりするもの。あれはダメ、これもダメと言われれば、やってみたくなるもの。思えば、坊主ほど誘惑されやすい者はいないのかもしれない。誘惑に負けてはいけないという思いが強いほど、誘惑もまた魅力的に見えるのだろう。この二作、語りの入れ子構造も良く似ている。