石の言葉 セヴェンヌ山脈と京都

   登場人物に名前はない。それなのにこんなに感情移入できるのはなぜだろう。クララ・デュポン゠モノ『うけいれるには』(松本百合子訳、早川書房)は、障害のある子どもの成長と死を兄、姉、弟がどう「うけいれた」のかをたどる小説だ。個々の名が示されず、長男、長女、末っ子とだけ記される文章は一見無機質に思えるし、一昔前の家父長制社会のようで最初は抵抗を覚えた。だが、突き放したような文体がやがて感情を運んでくる。弟に寄り添うことを選んだ長男、距離を置くことでしか自分を守れなかった長女。そもそも、この本の語り手は、この一家が住むセヴェンヌ地方にある石なのだ。石も日光を浴びて温まる日もあれば、雨に濡れる日もある。感情表現の乏しい障害児にもささやかな喜怒哀楽があり、兄はそれを共有する。

 石は無機物でありながら、いや無機物であるからこそ、有機物とは別の方法で語ることができるのだろう。ミュリエル・バルベリ『京都に咲く一輪の薔薇』(早川書房)を訳した時、minéralitéの訳に悩んだ。直訳すれば鉱物性となるが、それだけではない。京都の石庭や枯山水を巡る主人公に思いを重ねるうちにふと、ミネラル・ウォーターを思い浮かべた。あるいは温泉。軟水はともかく、硬水とは何か。水は液体でありながらそのなかに「石」のようなものをもっている。だとしたら、流れる石、やわらかな石もあるのではないか。そしてまた「語る石」も。

 セヴェンヌ山脈のごつごつした岩石にも、洗練を極めた京都の庭石にも、石の言葉がある。語るはずがないと思い込んでいるひとには聞こえない言葉だ。