解毒剤としての翻訳 『十六の言葉』によせて

   ナヴァー・エブラーヒーミー著「十六の言葉」(*)を読んで、「やられた!」と思った。ひとつには、終盤、とある一行で物語がひっくりかえるその仕掛けに息をのんだせいだ。だが、それについてはここではふれない。これから手にするひとたちから、初読の驚きを奪いたくないからだ。

 それでも、どうしても書いておきたいことがある。ストーリーとは別に、もうひとつ驚いたことがあったからだ。

  主人公は5歳でドイツにやってきたイラン人女性モウナー。彼女は自身の人生のキーワードともなる16のペルシャ語の言葉を挙げ、ドイツ語に訳しながら、祖母、母との関わりを明かしていく。「まるでおとぎ話のように、翻訳によってわたしは言葉の呪縛を解き、虜囚の憂き目から解放された」というから穏やかではない。たとえば、夫以外の男性と一緒にいるだけで詰問され、黒いスカーフ着用を迫られる国において「自由」という言葉は、西欧とは違う重さがある。「ヘアコンディショナー」という言葉は、髪質へのコンプレックスや父のパートナーへの複雑な思いを呼び起こす。

    訳すと言葉は力を失う。翻訳を職業とする者としてそのことに悩み続けてきた。だが、いっぽうで、訳すことは解毒剤ともなるし、呪いを解く力も持つということをナヴァー・エブラーヒーミーは教えてくれた。そしてまた母国語こそがもっとも豊かに感情表現できるという思い込みが、ある種の呪縛となりうることも。実際、外国語に訳すことで生じる「ずれ」こそが、逆説的にその本意を浮かび上がらせることもあるのだ。まるで表地が少しずれただけで、その奥の裏地がのぞくように。

   ペルシャ語とドイツ語の狭間で揺れる主人公の思い。翻訳で力を失ったはずの言葉が、さらに日本語に訳されて私たちの前にある。ペルシャ語からドイツ語、ドイツ語から日本語へと訳されることで言葉はますます力を失ったのかもしれないが、それでも主人公の思いは日本語で読む私にも届いている。もちろん、それは酒寄氏の翻訳に依るところが大きいのであるが、一冊のなかに翻訳の不可能性と可能性を秘めているという点で、「十六の言葉」は、小説であると同時に逆説的な翻訳論だともいえる。

 さらに蛇足を承知で付け加えるなら、様々な読み方ができるということは、初めて読んだ時の驚きだけではなく、何度も読んで味わうことができる「名作」の証なのである。

 

(*)ナヴァー・エブラーヒーミー著「十六の言葉」(酒寄進一訳、駒井組)