「死にたい」と「モテたい」

  父が亡くなってしばらく、「死」という字すら怖くなった。死亡や死去と書くことすらできず、「没」や「逝去」という表現に逃げた。亡くなるが「無くなる」や「失くなる」に誤変換されるたびに虚を突かれた。そうやって逃げ回ったとて死から逃れることはできず、気がつけば私の奥底にも「死にたい」という闇はあるのである。だが、言葉にはしない。できない。だからこそ、死について語れるひとを心から尊敬する。そんなこともあり、吉田隼人さんの『死にたいのに死ねないので本を読む』(草思社)には胸を衝かれた。「死にたい」と言えるのは「死なない」からこそである。でも、それを「死ねない」ということで、二重の不可能性が生まれる。そんなひとを相手に140字程度の浅薄な感想など言えないと逡巡するうちに時間が経ってしまった。

 そこにまた同じ版元、同じ編集者(私の訳書の担当さんでもあるW氏)から、黒川アンネさんの『失われたモテを求めて』が送られてきた。こちらは「モテたい」願望にときにエネルギーを得、ときに振り回されながら生きる若き女性のエッセイだ。そして、この2冊、似ても似つかぬようで似ているのである。「モテたい」もまた、自意識過剰の人間(ワタシのことです)にとって、「死にたい」と同じぐらい口に出すのがコワイ言葉の一つだろう。

 お二人とも才能あふれる方であり、傍から見ればまぶしいばかりだが、そこに共通するのは、「世間」との折り合いの悪さ、自己肯定感の欠落(自己陶酔の不在と言ってもいい)、そしてそれを堂々と語る勇気だ。絶望を絶望のまま向き合い本を読む吉田隼人さんと「モテの最終点は誰かと一緒にいることじゃない」「私は尊重されるにしかるべきなのだ」という言葉で絶望から自立を目指す黒川さん(ちなみにお二人は同じ高校の御出身ですとか)、きちんと絶望している弱者は強いのである。