遠くて近い戦場のこと

 戦争は嫌です。戦争をしてはいけません。でも、戦争は始まってしまいました。この一週間で考えたことを書いておきます。

 極論を言うなら、いま、一番「早く」戦争を終わらせる方法はウクライナが抗戦せず、白旗を挙げることです(もちろん「最善」の方法ではないし、ウクライナの人たちにとって失礼な言葉であることはわかっています。ごめんなさい)。でも、それは国家主権の喪失を意味します。当然、ウクライナは抗戦します。欧州は支援し、連帯を示すため人々は寄付を送り、そのすべてをつぎ込んでウクライナは抗戦します。そして、戦争が長引く以上、犠牲者は増えるでしょう。ウクライナの18歳から60歳の男性のなかにも私のような「へたれ」が一人や二人はおり、仮病で徴兵を逃れるようとしたり、死にたくないと思いながらも非国民扱いが怖くてマッチョなふりをしたりしているのかもしれません(こんなことを想像するのは私が政治の人ではなく文学の人だからなのでしょうか。でも「英雄」という言葉が美談めいて強調されるとき、そこにはまた弱虫もいるはずなのです)。Stop the war を掲げ、自由を守るために、ウクライナに連帯を示す時、そこには矛盾があります。抗戦とはいえ、ウクライナ軍はロシア兵士を殺しており、成人男子は「逃亡の自由」を奪われているのですから。私は正しい戦争なんてないと言いながら、ウクライナがなくなってしまわないようにと祈り続けます。せめてその矛盾に自覚的でありたいと思っています。

 侵攻が続く以上、抗戦しなければならない。となると、戦争をやめる決定権は、ロシア側にあることになります。プーチンを擁護する気持ちはまったくありません。ただ制裁を強めて孤立すればするほど暴走を招く例はいくらでもあります。「我が代表堂々退場す」の大日本帝国がそうでした。できれば外圧ではなく、内側から停戦を求める声があがってほしい。実際、ロシアでも反戦デモは行われているのです。デモに参加することで逮捕される危険があるにもかかわらず行動する方々に心より敬意を抱きます。ウクライナに注目が集まる中、ほんとうに支援を必要としているのは、ロシア国内の「レジスタンス活動家」たちかもしれません。

 それにしても、プーチンはなぜあれほど傲慢になれるのでしょう。長期政権が独裁を許したからです。独裁政権共産国の専売特許であるはずはなく、日本もまた同じ政権、同じ政党が権力をもつことで、ロシアのようになる危険はあるのです。ウクライナから難民がやってきても今の日本の政府は積極的に助けようとはしないでしょう。独断的な政治という意味では、今の日本はロシアに近く、アメリカに守られているようで守られていないという立場はウクライナにそっくりなのです。ここまで考えてようやく、この一週間、緊張感がつきまとって離れず、不安でたまならない理由がわかりました。政治通ぶるつもりはありません。今後の戦況の変化によって、気持ちが変化することもあるでしょう。この文章も削除してしまうかもしれません。でも、まだ私はハッシュタグではなく、自分の言葉で考え続けます。戦場は遠いようで遠くない。