バスのなかで見覚えのある顔を見つけた。その界隈ではちょっとばかり有名な本屋の店主さんである。常連客でもお得意様ではない私はご挨拶するきっかけを失い、彼の手の中にある本を見ていた。緑色のハードカバーに犬の絵。犬好きの私は、心惹かれつつも、そ…
仕様の問題か、書き手の問題かはわからないが、ツイッターを見ていると、時々、それが本人の弁なのか、引用なのかわかりにくいことがある。140字という制限のなかで、鍵括弧(「」という記号)や「~によると」といった説明を省きたくなるのはわかる。だが、…
日記について書こうとした矢先、『シモーヌ』5号(*)が日記特集であることを知った。さっそく手に取ると、執筆者の考察の深さに圧倒され、誰かが先に書いてくれたのなら、もうここに書く必要はないとさえ思って、一度はお蔵入りさせた小文なのだが、そもそ…
NHKの朝のドラマ「カムカム・エヴリバディ」でヒロインの夫ジョーが髪結いの亭主よろしく働かずにいることが話題になりました。もっと前に放送された「あぐり」では、ヒロインが美容師ですから、エイスケさんはまさに「髪結いの亭主」でしたっけ。 ところで…
戦争は嫌です。戦争をしてはいけません。でも、戦争は始まってしまいました。この一週間で考えたことを書いておきます。 極論を言うなら、いま、一番「早く」戦争を終わらせる方法はウクライナが抗戦せず、白旗を挙げることです(もちろん「最善」の方法では…
「荒海に人魚浮けり寒の月」(*)という俳句に出会ったときの驚きをどこから話せばいいでしょう。子供の頃、最初に出会った人魚は、アンデルセンの「人魚姫」、その次が小川未明の「赤いろうそくと人魚」だったでしょうか。この2作品の影響で、私にとって人…
かゆいのはつらいのです。痛みが体の悲鳴なら、痒みは身体の愚痴です。プラトンの『ゴルギアス』にこんな話があります。ソクラテスはカルレクリスに「ひとが疥癬にかかって、掻きたくてたまらず、心ゆくまで掻くことができるので、掻きながら一生を送り通す…
洋の東西を問わず、お灯明と言っていいのでしょうか。信者でもないのに、教会に行ってロウソクの光を眺めてるのが好きでした。年を重ね、お誕生日のケーキにロウソクを並べることはなくなりましたが、この季節になるとキャンドルの明かりに心惹かれます。 高…
子どもの頃、兄弟や姉妹のいる友人を羨んだことはありませんでした。むしろ、「一人っ子でかわいそう」と同情されることが嫌だったぐらいです。ところが、両親がふたりともこの世を去った時、私ははじめて兄弟がいないことを寂しく思いはじめました。 映画『…
呉明益の「自転車泥棒」*は失踪した父とその自転車をめぐる物語である。だが、不思議なことに私の印象に残ったのは、父が疾走する前の話。語り手の母が自転車に乗る場面だ。「口減らし」のために、娘が遠くに連れていかれそうになり、母親は娘を奪い返すため…
石井桃子さんの言葉に 「子どもたちよ 子ども時代をしっかりとたのしんでください。おとなになってから老人になってからあなたを支えてくれるのは子ども時代の『あなた』です」(*)というものがあります。今になって思うと、私は恵まれた子ども時代を過ごし…
母が亡くなってから、ふと鏡のなかの自分をみて、老婆のすがたに驚くことが増えました。介護から葬儀、実家の処分までの疲れがでたのかもしれません。コロナ禍のせいで人と会う機会が減ったことや、アレルギーのせいで髪を染めるのをやめたのも老け込んでし…
『狂女たちの舞踏会』(V・マス、早川書房)の訳者あとがきで、ジョルジュ・ディディ゠ユベルマン著、『ヒステリーの発明』(*)を引用しました。この本には、1880年代、写真家アルベール・ロンドたちが撮影したサルペトエリエール精神病院の患者たちの姿が…
今年4月に『狂女たちの舞踏会』(ヴィクトリア・マス著、早川書房)という訳書を出しました。タイトルは原題のLe bal des folles の直訳なのですが、思わず編集者さんに「この訳題そのままでだいじょうぶですね」と念を押してしまいました。そして、自分でも…
「目に映るすべてのことはメッセージ」とは荒井由実の「やさしさに包まれたなら」の歌詞ですが、「後悔に包まれた」ときにも同じことが起こります。母が亡くなってからしばらく遺品整理のために実家通いが続いたのですが、玄関に広がった大きな蜘蛛の巣を見…
大学生の時はじめて競馬場に行きました。当時まだ女性がひとりで競馬場に行くことは珍しかったと思います。赤いメンコのダイナアクトレスが好きでした。牡馬に混ざって奮闘する「彼女」に自分を重ねていたのかもしれません。最近は女性ファンも増えたし、女…
犬は犬として生まれるから犬なのでしょうか、犬に育てられるから犬になるのでしょうか。これはアイデンティティの問題であり、教育の問題です。まずは、映画『ベラのワンダフル・ホーム』の原作、W.B.キャメロン『名犬ベラの650km帰宅』(青木多香子訳、新潮…
NHKのワールドニュースを見ていた時のこと、画面では女性キャスターがしゃべり、通訳の音声は男性の方でした。するとたまたま通りかかった夫がそれについて「女性が男性の声しゃべっているような気がして、なんか違和感がある」と言うのです。私にしてみれば…
画家はとある令嬢の肖像画を依頼されます。写真のない時代、その肖像画はお見合い写真のようなものなのです。画家は「被写体」であるその令嬢を観察し、作品を仕上げていくうちに彼女に恋をしてしまいます。その結果、作品は、写実絵画から、ラブレターへと…
凧あげというとお正月のイメージが強いのは、冬の風が凧あげに向いているからでしょうか。もちろん、これは日本だけのことで、夏が凧あげのシーズンだったりする国もあるのです。コロナの影響で、エジプトで凧あげが流行という記事を読んだのは、2020年8月の…
母が亡くなる一か月前、実家で梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』を見つけた。文庫本ではなく、立派な装幀の愛蔵版である。聞けば、お友達の娘さんが不登校だと知り、その子に贈ろうと購入したものだという。代わりに送っておくから、名前と住所を教えて、…
ジム・ジャームッシュの映画『パターソン』のなかに「詩の翻訳なんてレインコートを着たままシャワーを浴びるようなものだ(Poetry in translations is like taking a shower with a raincoat on.)」というセリフがある。これを聞いたとき、映画館の暗闇で…
9月某日 白髪染めやめて半年。バスに乗ったら席を譲られた。だいじょうぶです、と座らなかったのだが、家に帰って夫に話したら、「ありがたく座っておかないと、本当に座りたいときに誰からも譲ってもらえなくなるよ」と言われる。そうなのか。席を譲る条件…
コルタサルの「片頭痛」(寺尾隆吉訳『動物寓話集』光文社古典新訳文庫所収)にはマンクスピアという動物が出てきます。「私たちはずいぶん遅くまでマンクスピアの世話をしているが、夏、こうして暑くなってくると、彼らは気紛れや移り気の度合いを増し、成…
人の一生とおなじように本には本の一生があるのでしょう。あっという間に捨てられてしまう本があれば、人間よりもずっと長生きする本もあります。 実家を処分するにあたり、たくさんの本とお別れしました。 精神科医だった父の本は医学書が中心でした。医学…
白黒白日記 (2)ともしらが 7月某日 白髪染めをやめて四か月、大学の同期とZoom飲み会。やっぱりワタシだけ老けて見える。えーん。じぶんのなかの「見栄」に気づかされる。その一方、染まるシャンプーもあるよ、などというアドバイスがありがたいような、う…
ロマン・ガリの小説『夜明けの約束』が映画化され、『母との約束 250通の手紙』のタイトルで公開されました。試写会に呼んでいただいたご縁もあるし、映画ではじめてこの作品をご覧になる方の邪魔をしたくないので、これまで控えておりましたが、公開から半…
白黒白日記 (1)ノームコアのたてがみ 2020年1月某日 母の一周忌。遺影の母はプラチナヘア。父が亡くなるまでは髪染めていたから、母は父のために70代まで「若くきれい」でいようとしていたのかしら。私は誰のために染めているのかしら。あと20年染めつづけ…
是枝裕和監督の映画『歩いても歩いても』に、「人生はいつも、ちょっとだけ間に合わない」というセリフがある。父と母を送った後、何度も同じことを思った。子供の頃のことを聞いておけば良かった。ああししてあげればよかった。もっとやさしい言葉をかけて…
子供の頃、私は母の手作りの服を着ていました。小学校の上履き袋も体操着袋も母の手作りでした。でも、母は不器用な人でした。何か作らなくてはならなくなると布と糸を買ってくる。残った端切れや糸はとっておくのだけれど、いつの間にか忘れてしまい、次に…