ファム・ファタルの弁明 クラリモンドと椿姫

  悪女ってなんでしょう。ゴーティエの『死霊の恋』を訳していてふと思いました。クラリモンドは死霊(La morte 今でいうゾンビとはちょっと違うので混同しないでね)にして吸血鬼、高級娼婦として男を誘惑し、その血を吸う怖い女です。でも、タイトルは『死霊の恋 (La morte amoureuse)』、彼女は本気で主人公の男性ロミュアルドに「恋」をした(amoureuse)」のではないでしょうか。

フランス文学のキーワードとして「ファム・ファタル」という言葉を度々目にします。直訳すると「運命の女」「人生を狂わせる女」。ときに「悪女」と混同されますが、いやいや、それはあくまでも世間のモラルによる評価であって、当の女に悪意はないし、彼女のせいで人生を棒にふった男だって別に彼女を恨んでいるわけじゃないでしょうっていうケースもあります。

 だって、クラリモンドはこう言うのです「私の命をつなぐために、どうしても必要な分だけしか、あなたの命を犠牲にするつもりはないの。あなたを思う気持ちがもっと軽いものだったら、たくさんの愛人をつくってその血を吸い尽くすことだってできたでしょうに。でも、あなたと知り合って以来、ほかの誰も彼もおぞましい存在にしか思えない」こんな一途な思いさえ、「悪女の深情け」になってしまうのでしょうか。血を吸われたロミュアルド自身、彼女を恨んでいるわけではありません。ふたりが相思相愛である限り、悪女と呼ぶのは「世間」であって、ご当人は幸せなのです。

 『椿姫』のマルグリットも同じです。高級娼婦でお金持ちのお客さんがたくさんいて、贅沢な暮らしをしていたのにアルマンと恋に落ち、ほかのお客さんを失い、貧窮します。それでも彼女は幸せだし、アルマンも満更ではなかったはずなのです。少なくとも、「世間的な幸福」の圧力を感じるまでは。

 恋は悪なのでしょうか。フランス語では「恋」も「愛」も同じAmourです。映画『大いなる静寂』で若き修道士が「私は神に恋をしてすべてを捧げました」と語っていました。神への恋が信仰であるならば、恋する娼婦が誘惑者と捉えられ、悪女にされてしまうのはなんだか不公平な気がしてならないのです。