母について ヴィルジニーのプライド 3

 実家がどんどん荒れていくことに気づいていないわけではなかった。何とかしたいと思っていた。実家に様子を見に行こうとすれば、「忙しいんでしょ、来なくていいわよ」と言われ、それでもと押しかければ、散らかり放題の家を見て、「なんとかしましょうよ」と私が言い、「ほっておいてちょうだい」と母が叫び、けんかになった。やがて、私は母の家を訪れると、ストレスとアレルギーで倒れるようになり、自衛のために母から距離をおくようになった。自らの生活を優先させたのだ。だから、母の衰弱に気がつくのが遅れた。手をうつのが遅くなった。もっと早く、ヘルパーを入れていれば、施設にいれていれば、という思いは今も消えない。娘である私は、母から頼られたことはなかった。ほんとうに自分で動けなくなるまで、母は一人娘である私にSOSを出さなかった。母が私を頼らなかったのは、遠慮だったのだろうか。仕事をする娘に、自分の夢を託していたのだろうか。
 母自身は、昭和12年生まれのあの世代にはめずらしく、四年制大学で物理を専攻し、中学高校の物理教師の資格ももっていた。だが、結婚後は専業主婦にとどまり、その「華麗なる学歴」を活かすことはできなかった。そんなこともあり、母は娘の私が仕事をしていることを歓び、常に「仕事忙しいんでしょ」「私のことよりも仕事を優先させて」と言っていた。そういう母の配慮をありがたく思う気持ちの一方、私はずっと「母から信用されていない」気がしていた。母にとって私は、病弱な子供のままであり、頼りない存在でありつづけたのだ。近所の人や支援センターのひとに「もっと娘さんを頼ったらどうですか」と言われ、母は「娘は、身体が弱いので、介護などさせられません」と答えていた。
 そもそも、母は誰にも頼らない人だった。父は幼少期のポリオが原因で、足が悪く、身障者手帳をもち、松葉づえをついていた。足の不自由な父との結婚生活のなかで、母は献身や遠慮を身につけ、誰かに頼るということを忘れてしまったのだろうか。いや、結婚前から、母はそんな性格だったと叔父から聞いた。母は女、女、男、女の四人兄弟の二番目だった。姉は「はじめての子供」として、弟は「はじめての男の子」としてちやほやされ、妹には「すえっこの特権」があった。そんななかで、母はいつも遠慮がちに、我慢してしまう性格だったというのだ。
 確かに、母は私が医者の往診を頼もうとしても、「先生は忙しいし、もっとひどい人もいるんだから悪いわよ」と言っていた。こうした遠慮は、たぶん、はたから見れば美徳なのだろう。だが、私にはある種のセルフネグレクトであり、自分を大切にしない行為のように思えた。亡くなる一か月前、電話で「ねえ、どうしたい? ヘルパーさん頼んで、自宅療養するのと、施設に入るのとどっちがいい?」と尋ねた私に、母はこう答えた。「いちばんいいのはね、安楽死」。一瞬、息をのんだあと、「今の日本ではそれは無理です」と返すと母はあっけらかんと言った。「救急車をよばなければいいのよ」。救急車を呼ばなければ、私は保護責任者遺棄致死か、自殺ほう助になるのよ、と理詰めで返すと、母は「あなたがそんな弱いひとだとは思わなかったわ」と電話を切った。
 その日から、母は日に日に弱っていった。いちどは救急車で運ばれたが(私が救急車を呼んだ)、「衰弱」は、「病気」ではないということで、入院もなく帰された。私は仕事をつづけていたし、母の家は、私の家から小一時間かかるのだ。気を付けていたつもりだが、あの日、私は風邪気味だった。母にうつしてしまうのも怖いし、何しろ母の家はごみ屋敷なので、そこに泊まると自分まで倒れてしまいそうだった。医師からもケアマネさんからも介護は長期戦ですよ、といわれ、共倒れになってはいけないと、私は母をおいて自分の家に帰った。いや、今にして思えば、どれもこれもただの言い訳でしかない。「明日またくるからね」というと母はうなずいた。
 翌朝、母はもう息をしていなかった。
「ポールとヴィルジニー」でも、ポールはヴィルジニーの死が受け入れられない。そんなポールに、語りである老人は言う。「死はすべての人間にとっての安らぎなんだよ。それは生と呼ばれる不安な昼のあとに訪れるおだやかな夜だ。人間は生きているあいだはたえず病魔や、苦痛や、煩悶や、恐怖に責め苛まれる。だが、そういったものは、死の眠りによって永遠に消え去るのだ」(鈴木雅生訳、光文社古典新訳文庫
 安らかに眠ってほしいと思う一方で、どうせなら化けて出てこいと思ったりもする。そう、私はもっと母と話したかったのだ。