母について ヴィルジニーのプライド 2

 父が死んだあと、母は家事をしなくなった。もともと家事が好きなひとではなかった。いや、別に家事をしないならしなくてもいい。家政婦を頼むなり、もっと小さな部屋に引っ越すなり、ほかに方法はあったはずだ。だが、母は遅くまで起きて市長への陳情書を作成したり、食事をおろそかにして熱中症になったり、栄養失調に陥ったりした。家じゅうに古新聞が散らばる。捨てようとすると「まだ読んでいないから」捨てるなという。8年前の新聞を読むことはないだろうし、必要なら図書館に閲覧もできるし、インターネットで検索もできるからと説得しようとしたが、聞く耳をもたない。
 いわゆる認知症とは違っていた。思い出せない、忘れてしまうという記憶障害はなかった。だが、現状を把握する力がなくなっていた。そもそも、若い頃から思い込みが激しく、そういう一面はあったのだ。たとえば、私のスカート。ちょっと長いから裾上げしましょうと、裾をほどき、そのまま何年も放置された。やれないことを引き受けないでよ。裾がちょっとくらい長くても、そのまま着るつもりだったのに、と口論になったのは私が大学生のときだ。地区会館の委員も、駅前の自転車置き場拡大の署名も、あれもこれも引き受け、時間を奪われ、睡眠時間を削り、食事をおろそかにし、犠牲になったのは自分の健康であり、自分の時間だ。母は、「やりたいこと」と「できること」のギャップに苦しみ続けた。
 石牟礼道子さんや市川房江さんが母の理想だった。だが、支援者のいない活動は続かない。転倒し、いよいよ生活が困難になり、荒れ果てた実家に生活支援センターからケアマネさんがやってきた。「今いちばん困っていることは何ですか」という問いに、母は「わかいひとが政治に関心をもたないことです」と答えた。「買い物ができない」「入浴が困難」といった答えを待っていたケアマネさんは、母の的外れ場答えを認知症のせいだと思ったようだ。だが、母は本気だった。「わかいひとが政治に関心をもたず」、これまで自分がやってきた社会運動を引き継ぐ人がいないから、運動から手をひくことができず、「困っている」と言いたかったのだ。
 母は地区会館の運営委員をはじめ、「九条の会」の署名活動、「自然を見守る会」の水質調査などの活動資料をためこみ、実にトン単位の書類で実家は埋まっていた。配布を引き受け、結局そのままになってしまったチラシの束も大量にあった。書類の重さで床が傾き、必要なものが見つけられない状態になっても、母は誰にもさわらせなかった。「できないことはひきうけないで」、もっと自分を大切にしてという娘の願いは聞き入れられなかった。
 誰一人として、「後継者」として母のお眼鏡にかなったひとはいなかった。そして、また「友」もいなかった。母自身が「葬儀に来てほしい友人はいません」と書き残していた。実際、母には長電話したり、一緒に旅行をしたりするような友がいなかった。「知りあい」は多い。でも、甘えられるひと、任せられる人はいなかったのだ。母はよく人の悪口を言っていた。悪口というより批判といってもいいかもしれない。「あのひとはいい人だけど」のあとに何か必ず、欠点をあげた。理想が高すぎるのだ。娘の私が小学校の頃、テストで95点をとっても、ほめる前にまず、「もったいない、どこ間違ったの?」と言う人だった。完璧主義は自分自身にも向けられていた。自分が許せない。だから、甘えられない。自分はプライドが高すぎて、弱みをさらせないから、友人がいないのだとも言っていた。
 完璧主義であるはずの母の家は、ごみに埋もれていった。何しろDM一通捨てるのにも、住所と名前を消し、宛名部分のビニールをはがし、封筒部分と中身を古紙回収に、ビニール部分をブラゴミに仕分けしなくては気が済まない。生ごみは乾燥させてコンポストへ。そうした「手間」が負担になり、あとでやろうと思ううちに、徐々にごみがたまっていった。近所からだらしない人と思われたくないから、「きちんと分別した」ごみしかだしたくない。
 「ポールとヴィルジニー」で、語り手である老人はこう語る。「世間からの尊敬は、家庭を不幸にすることによって得られたもの。地位や財産は、健康をかえりみないことで得られたもの。愛されるという稀有な喜びは、絶え間ない犠牲を払うことによって得られたもの。そして往々にして、他人の利益のために一生を捧げた挙げ句、いざ死にのぞむ段になって、自分の周囲には偽りの友人や忘恩の肉親しかいないことに気づくのだ」(鈴木雅生訳、光文社古典新訳文庫
 母は、まさにそんな生き方をしていた。そして、私は忘恩の娘であった。