だんだんしゃりしゃり

 実家の片付けはなかなか進みません。車で行って、誰にも会わずに作業する分には、コロナ禍も関係ないとは思うのですが、気持ちが動かないのです。コンマリ式の「スパーク・ジョイ」も遺品整理には効果がありません。ときめくものなどないのです。むしろ、断捨離のほうが近いかな。あるのは、思い出と後ろめたさばかり。

 たとえば子供時代の写真。母が短いスカートをはいているのはあの時代のファッション。この服は母の手作りだったはず。父の机。書きこみだらけの本。私の使っていた子供部屋からは、赤面ものの日記帳やら詩のノートが出てきて、ひとに見らないように捨てなくては、と思ったり。それでも、自分で由縁が思い出せるもの、取捨選択の判断できるものは、まだいいのです。

 困るのは父と母の遺したもの。自分のものではないものを捨てるのは後ろめたいのです。本人がもうこの世におらず、法律上「相続」したのは私であり、所有権は私にあると頭でっかちに考えてみたところで、心はそう簡単にコントロールできません。これは何に使うつもりだったのだろうか。このがらくたも何か意味があって、ここにあるのではないだろうか。誰かに借りているものを捨ててしまったらどうしよう。リディア・フレムの『親の家を片づけながら』(友重山桃訳、ヴィレッジ・ブックス)にも、「どこかの鍵」が出てきて、「どこの鍵であるかすらわからない」のに、この鍵を捨てたら開かなくなる扉がどこかにあるような気がして捨てるのには勇気がいるというエピソードがありましたっけ。

 残された手紙やメモのたぐいを読むのも、ちょっとした後ろめたさがありますね。リディア・フレムも続編の『親の家を片づけながら ふたりが遺したラブレター』で、両親のラブレターについて書いています。うちの場合、まだ両親のラブレターは見つかっていないけれど、父の手帳には、「退院したら食べたいもの」のリストがあり、大福、ケーキ、黒はんぺん、うなぎとたべもの好物の名前がずらり。こんなものを見てしまうとまた手がとまるのでした。

f:id:ngtchinax:20200117103839j:plain