かわいくない犬 ウヤミリックとベック

 犬と男の冒険旅行との触れ込みで読み始めたが、どうも勝手がちがう。犬がかわいくない。いや、かわいいところもあるにはある。だが、ウヤミリックという名のこの犬、人糞は食べるし、隙あらば手を抜こうとする。人間のほうも犬をどなりつけ、いざとなったらこの犬を殺して食おうとまで考える。角幡唯介箸『極夜行』(文藝春秋)の話である。

 著者は犬とともにグリーンランドを行く。犬はペットではない。橇を引く使役犬である。人は犬がいなければ生きてゆけず、犬もまた人がいないと生きていゆけない。その依存関係、共生関係の前で、絆や信頼という言葉がきれいごとに思えてくる。ある晩、ふと見ると犬が二匹に増えている。よく見ればそれは「自分の犬」によく似た「オオカミ」である。著者はオオカミを撃ち、その肉を犬とともに食らう。ヒトとケモノのあいだにいた犬は、このとき、同じイヌ科の仲間を捨て、ヒトの側につく。

 さて、フィクションの世界には、ヒトを捨て、ケモノの側についた犬もいる。ジャック・ロンドン『野性の呼び声』(深町真理子訳、光文社古典新訳文庫)に登場するベックだ。賢いベックは人間の心を見透かす。過酷な体験のすえにめぐりあった人間、ソーントンは信用できる。だが、ほかの人間は信用できない。ソーントンをイーハット族に殺された失ったベックは人間を見限り(いや、そもそも、先住民であるイーハット族は彼にとって人間ではないのか?)、野性の呼び声に従う。

猫派は猫の中に野生を見るが、犬派は犬の中に人間っぽさを求める。しかし、犬が「人間」と対等になることは、不服従を意味する。アシモフは『われはロボット』(小尾美佐訳、ハヤカワ文庫)で、人間性を得たロボット、キューティーが人間を批判するに至る様を描いたが、犬が人間の良き友であるためには、人間がケダモノになりさがってはならないのである。