母と娘 

 ひさしぶりの更新です。この親にしてこの子ありといいますが、母は私にとって、まさに「似て非なる者、遠くて近き者」でした。今日は母のことを少しだけ。新年早々、めでたからぬ話で恐縮です。

 1月某日、初めて喪主というものを経験いたしました。母があの世に旅立ったのです。葬儀から数日後、年金事務所の手続きの待ち時間に、小野正嗣さんの「人魚の唄」(新潮社『マイクロバス』所収)を読み始めました。ヘルパーの女性と老女の物語。どうしても、亡くなったばかりの母がナオコ婆と重なります。実際、歩けなくなり、食が細くなっていく様は、ほんとうにそっくりなのです。でも、ナオコ婆は、これを人魚に戻る準備だと言います。もうすぐ海に帰るから、二足歩行のための足はもういらないの。地上の食べ物ももういらないの。
 私の母はもともと食が細かったうえに、好き嫌いも多く、食べられるものがどんどん少なくなっていき、私自身も毎日スープを届けるような孝行娘ではなかったので、最後はほんとうにやせ細ってしまい、見ていてつらいものがありました。自分を責めもしました。それでも、「人魚の唄」を読んでいて、ふと思ったのです。ああ、あれは少しでも身軽に飛んでいくための準備だったのかもしれない、と。そして、父に呼ばれて天に向かう母を引きとめるほどの重さを私はもっておらず、「人魚の唄」のセツコほどの切実さもなかったのだなと。
 井上靖に「わが母の記」(映画にもなりましたね)というのがありますが、落ち着いたら、「わがママの記」を書いておこうと思います。私がママと呼んでいた人は、なかなかにワガママな方でしたので、いつか笑い話となりましたら。いや、それよりも先に、私もまた「あちら」に呼ばれてしまうかもしれません。

挽歌
白髪の老女だれもが母に見ゆ誰にも似てない母でありしが

 

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