翻訳のレシピ イベント後記にかえて

 飛行機を食べる人を書いた小説(*)はあるが、本を食べる人に出会った。本と雑貨の店「本は人生のおやつです!!」(**)の店主、坂上友紀さんである。おやつのように、お菓子のように本を読み、ごはんやおかずのように血肉としているひとなのだ。

 つい先日、みなとラボさんの後援で「本は人生のおやつです!!」にお招きいただき、シュペルヴィエルの短編小説集「海に住む少女」の魅力を語る会というイベントを行った。そのなかで、坂上さんから、同書のなかで好きな部分をいくつか挙げたうえで、「ここは直訳なのですか、意訳なのですか」という質問があった。たとえばフランス語の授業、もしくは翻訳教室だったら、原文を読み上げ、対照したうえで解説するべきだろう。だが、大多数の参加者が仏語学習者ではないその場で、それをするのは場違いだと判断し、質問者の意図でもないと思ったので、直訳と意訳の境界線の曖昧さを話し、逐語訳的な忠実さよりも、原文に誠実であること、著者の意図を裏切らないことを重視しているとお答えして次の質問に移った。その答えに嘘はない。だが、私も同じようなことを思ったことがあるのを数日後になってふと思い出したのだ。

 かつて、とある方と「詩は翻訳可能か」という話をしたことがある。韻律は翻訳不可能というその方の発言に対して、私は「それでも堀口大学永井荷風の影響で仏語を学ぼうと思った人は多いはず。訳詩は原詩への誘い。原文で読みたいなと思わせるのも、訳詩のひとつの役割ではないか」と返した。翻訳によって魅力2割減(場合によっては半減かも)でもこんなに美味ならば、10割で味わってみたいという欲、精巧な時計を分解したくなる気持ち(昭和の子供はよく時計やラジオを分解して遊んだものです)。私を含め、多くの翻訳者はこの思いを原動力に外国語を学んできた。たとえ実際に語学を取得して、原文を読もうということにならなくても、彼女の質問の根底にあったのはそんな思いではないだろうか。そしてまたシュペルヴィエルの作品が短編小説においても「詩」であり続けている証拠ではないだろうか。

 おいしいお菓子(おやつです、おやつ)を口にして、「これなんでできているの?どうやってつくったの」という言葉が出てきたとしたら、その答えは、「小麦粉200グラムにバターを……」といったものではなく、こういうべきだったのかもしれない。「美味しく食べていただけたのなら、翻訳者として本望です。もっと美味しいおやつがつくれるよう精進いたします」すこし時間がかかってしまったものの、あの質問をしてくださった坂上さん、機会をつくってくださったみなとラボ小倉快子さん、朗読にご協力いただいたローラさん、そしてあの時間を共有してくださった皆様に感謝をこめて。

 

(*)ベン・シャーウッド「ぼくは747を食べてる人を知っています」土屋晃訳、ソニーミュージックソリューションズ

(**)本と雑貨の店「本は人生のおやつです!!」https://honoya.tumblr.com/