Tel père Telle fille 父と娘

   今でこそこうした質問はタブーになったが、私が子供の頃、学生の頃は、親の職業を聞かれることが度々あった。「医者です」と答えると、「何科の?」とさらに問われる。「精神科です」と応じると妙な沈黙が訪れた。歯医者や内科に比べて「こんど診てもらおうかな」とは返せないし、テレビドラマの天才外科医を重ねて「かっこいいですね」と返すわけにもいかないからだろう。

     跡を継げと言われたことはない。継ぐつもりもなかった。それなのに気がつけば、意識している。精神病院を舞台にした『狂女たちの舞踏会』の翻訳を打診され、即座に引き受けた時もそうだった。そんなわけで、梯久美子著『この父ありて 娘たちの歳月』(文藝春秋)を読んだ時、もっとも印象に残ったのは、同業、もしくは隣接する職業を選んだ娘たち、萩原葉子辺見じゅんの章である。

 だが、その一方で、すべての父娘の姿にどこか身に覚えがある。石牟礼道子茨木のり子島尾ミホと娘たちはそれぞれ個性的だし、父もまたそれぞれに違うのだが、少なくとも昭和以前の父と娘には母と娘とは異なる何かがあると感じた。ひとつは、戦争、もうひとつは教育である。

 昭和の父は戦争を背負っていた。兵隊に行くのは父や兄弟であり、母娘を守るのは父なのである。戦争という暴力が家父長制をゆるぎないものにしていたのだ。もうひとつの教育は、小津夜景さんの「いつかたこぶねになる日まで」(新潮文庫)を読んでいて、「さらにむかしにさかのぼると、女子教育には家長たる父親の意向が大きく反映していた。またその内実はあくまでも自己修身としてのものにとどまり、娘がひろい世界へ出てゆくことを見すえた父親はきわめてまれであった」という一節に出会い、納得がいった。女子が学びたいと思っても、学校に行かせて「くれる」のは父であったと今更ながらに思うのだった。

 昭和の父は、娘にとって社会を背負って帰ってくるひとだった。家庭人であった母と異なる人生を選ぼうとするとき、父の存在は今とはちがう意味をもっていたのだろう。私自身、50代を迎え、父母を見送り、親子関係に終止符が打てたからこそ、親から得たものを振り返ることができるようになった。今ようやく昭和という時代が見えてきたのだ。それはまた、そうした父親像が遠くなり、娘たちが自由になった証だと思いたい。