哲学はなにが「難しい」のか 坂道と階段

 最初に哲学の入門書を引きうけたとき、しり込みする私に担当編集者は言いました。「専門書ではないし、あくまでも一般教養の範囲だから大丈夫」と。確かに、原書を読んでみると難しい言葉はあまりなく、日常語で書かれています。よしこれならと思ったものの、いざ訳し始めると困難にぶち当たります。

フランス語の場合 イデアも思いつきも考えもすべて「idée」、理由も理性も同じ「raison」シニフェ/シニフィアンだって、動詞のsignifier自体は日常会話でも使う言葉だし。ハイデガーサルトルのいう「投企」にしたって、「projet」は英語のプロジェクトと同様、普段「計画、企画」という意味で使っている言葉なのですから、少なくとも用語の点では、彼らにとって哲学は「新しい語彙」を学ばなくても入っていけるものなのでしょう。ただし、「新しい概念」は学ばなければならないのだから、彼らにとって哲学が簡単に学べるものかといえばそうではないのでしょう。むしろ、文脈によって同じ単語が日常的な意味なのか、哲学的な意味なのかを判断するのは、別の難しさがあるのかもしれません。ただ哲学が必修科目となっている裏にはそんな語学的な背景もあるような気がします。

 翻って日本語では西洋哲学が「輸入」された時に、漢語で抽象性の高い概念を表そうとした歴史があり、日常語と哲学の言葉には乖離があります。見慣れぬ漢語(悟性とか投企とか)とカタカナ(イデアだのアイデンティティだの)の羅列は、「哲学って難しそう」と思わせてしまう壁のひとつとなっています。

 具象から抽象に展開する高低差は同じでも、フランス語ではスロープもしくは坂道など段差がない、日常と地続きの感覚なのに比べて、日本語では階段を登っていくような感じ。この段差でつまずいてしまう人も多いのかもしれません。ちょっと手すりをつけるとか、杖を差し出すことができればと思いながら、訳語を選び、ときに訳注をつけているのですが、こう書いている私にも登った先の光景が見えているわけではなく、階段の踊り場でためいきをついて見上げれば、先はまだまだ長いようです。

 

 

怖くはないですか 

 「怖くはないですか」とそのひとは問い、「怖いですよ。でも……。」と私は答えた。場所は中華料理屋。翻訳教室の懇親会。受講生の方からの質問は「フランス語の翻訳をしていても、舞台がフランス以外の国だったり、登場人物が外国人だったりすることがある。自分の知らない国について訳すのって怖くないですか」とのことだった。

  コロンビアに行ったことはないのに、コロンビアの政治家のノンフィクションを訳したことがある。老いを知らない若いころに、老女を主人公とした作品を訳したこともある。もちろん、ネットを検索し、参考書を読み、できる限りの努力はする。それでも、怖い。だから、私は彼にこう答えた。「怖いです。でも、どこかで腹をくくらないと、怖がっていたら何もできませんよ」。締め切りを口実にし、文学の普遍性を信じ、完ぺきではないとわかっていても、一冊の本をこの世に送り出す。自分のできる精一杯のことをして、あとは編集者や読者の判断にゆだねる。ただの蛮勇と言われればそれまでだが、プロとして請け負う以上、間違いを指摘されれば謝り、批判を背負うことを選ぶしかない。そんなふうに私は答えた。

   冒頭の問いかけをしたひとはとても純粋な方なのだ。その後、もう一度お会いする機会があり、短歌の話をした。共通の師や知り合いかいることもわかった。彼は臆病なのではない。怖がることが大事だ。私自身、「翻訳者に必要な資質」を問われ、「謙虚さ」と答えたことがある。原文という他人さまの表現を預かっている以上、自分の理解が絶対ではないという思いは消えないし、思いあがってはならないと思う。あの日、質問者の方の真摯なまざしは、彼ならきっと一生をかけて一冊と向き合い、舞台となった場所をすべてめぐるまで納得しなかいことだろうと思わせるものがあった。その質問者の方は昨年とつぜんに、この世を去ってしまったのだ。

 私は今も彼の無垢な探求心をうらやみ、彼が世に問うことのなかった一冊に嫉妬している。

 

石の言葉 セヴェンヌ山脈と京都

   登場人物に名前はない。それなのにこんなに感情移入できるのはなぜだろう。クララ・デュポン゠モノ『うけいれるには』(松本百合子訳、早川書房)は、障害のある子どもの成長と死を兄、姉、弟がどう「うけいれた」のかをたどる小説だ。個々の名が示されず、長男、長女、末っ子とだけ記される文章は一見無機質に思えるし、一昔前の家父長制社会のようで最初は抵抗を覚えた。だが、突き放したような文体がやがて感情を運んでくる。弟に寄り添うことを選んだ長男、距離を置くことでしか自分を守れなかった長女。そもそも、この本の語り手は、この一家が住むセヴェンヌ地方にある石なのだ。石も日光を浴びて温まる日もあれば、雨に濡れる日もある。感情表現の乏しい障害児にもささやかな喜怒哀楽があり、兄はそれを共有する。

 石は無機物でありながら、いや無機物であるからこそ、有機物とは別の方法で語ることができるのだろう。ミュリエル・バルベリ『京都に咲く一輪の薔薇』(早川書房)を訳した時、minéralitéの訳に悩んだ。直訳すれば鉱物性となるが、それだけではない。京都の石庭や枯山水を巡る主人公に思いを重ねるうちにふと、ミネラル・ウォーターを思い浮かべた。あるいは温泉。軟水はともかく、硬水とは何か。水は液体でありながらそのなかに「石」のようなものをもっている。だとしたら、流れる石、やわらかな石もあるのではないか。そしてまた「語る石」も。

 セヴェンヌ山脈のごつごつした岩石にも、洗練を極めた京都の庭石にも、石の言葉がある。語るはずがないと思い込んでいるひとには聞こえない言葉だ。

 

 

アルス・ロンガ 運ばれるもの

 きっかけは坂本龍一氏の追悼番組だった。「東風」「チベタンダンス」、さらには沖縄民謡、アフリカの民族音楽。エキゾチックな魅力をちりばめた、彼の作品が、「文化の盗用」と言われずにきたのは、そういう時代だったからなのか、彼が異国のアーティストに敬意をもって接していたからなのか、はたまた、その才能があまりにも秀でていたから、単なる借り物ではなく独自の音楽として作品をなしているからなのか。どこまでがオマージュやインスピレーションで、どこからが「盗用」なのか。

 翻訳というのは異文化をいかに取り入れるか、そこから何を学べるかという問いだと思いながら、翻訳の仕事をしてきて早四半世紀となる。だから、文化の盗用という言葉を聞くたびに、困惑してしまうのだ。たとえば、ゴッホに浮世絵が影響を与えたとか、ルイ・ヴィトンモノグラムは日本の家紋をまねたものだとか、そんな話をするとき、「文化の盗用」を責めるというよりも、むしろ誇らしげだったのはつい昨日のことではないだろうか。

 蔑みや差別を伴う引用や、まったくの盗作、剽窃はもちろんあってはならないことだが、現在、「文化の盗用」と言われていることの一部(すべてとは言わぬ)は、「文化の借用」であり、利子がついて戻ってくるまで待てなかっただけなのではと思う。いや、反対に、借りてきた側が返す意思を示してこなかったせいなのかもしれない。「文化の借用」に証書はなく、期限も利率も明示されていない。自分たちの文化が広く知られることで、何らかのメリットが返ってくるまでには時間がかかる。「借用」なのか「盗用」なのかを決める条件は、敬意の有無、もしくは対等な関係があるかどうかだ。

 長い搾取の歴史が信頼関係を成立させなくなってしまったという側面は否めない。たとえば、カナダで上演反対署名が起こった時、署名活動の中心人物に会いにいったというムヌーシュキンのように、対話や交流による解決を目指す態度はこれからも求められていく(*)。その一方で、あまりにも短いタイム・スパンで文化をジャッジしようとする流れは大きな危険をはらんでいるように思う。そこには100年先へのまなざしが感じられないのだ。

 冒頭に引いた坂本龍一の好きな言葉として『Ars longa, vita brevis 芸術は長く、人生は短し』という言葉が訃報とともに世界に広がった(**)。盗用は罪と罰で裁かれることが終点となる。だが、必要なのは未来へと「運ぶ」運用ではないだろうか。

 

*カロリーヌ・フレスト『傷つきました戦争』(堀茂樹訳、中央公論新社)ムヌーシュキンの努力は実を結ばず、上演中止になったのだが、彼女が「動いた」ことには大きな意味があると思う。

**坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社)

 

エルノーの介護日記を読む

 マネキンの着ているガウチョ・パンツをほしいと言ったら、店員さんがその場でマネキンの着ていたものを脱がし始め、なんだか心がざわざわした。その手つきが、母の下着を脱がすヘルパーさんの所作を思い出させたせいだと気づいたのは帰宅してからだった。どうもまだ立ち直っていないらしい。四年前の一月、「母死去」と日記に漢字三文字を記しながら、カミュの「異邦人」の冒頭部分そのままだなと気づいた。「きょう、ママンが死んだ」私は母を「ママン」と呼んだことはなかったけれど。これは私だけの体験ではない。アニー・エルノーの『Je ne suis pas sortie de ma nuit(私は夜から抜け出せない))』にも、母の死んだ日、「母が死んだ」と綴り、「たとえフィクションでももう二度とこの言葉は使えそうもない」と続ける。

 『Je ne suis pas sortie de ma nuit』は、1999年に刊行されている。そうだ、彼女が「ある女」で書いたあの母親だ。その筆致はいつもながら硬質で感傷とは無縁だ。何度も「泣く」という動詞が出てくるのに、崩れない。夜から出られないという題を見て、裏表紙の紹介文を読み、介護の苦しみ、母の死から立ち直れない悲しみを書いたものかと思ったが、読み進めるうちに違うとわかった。死んだ母そのひとが最後に書いた言葉こそが「夜から出られない」だったのだ。しかもla nuit ではなく、ma nuit。夜は、闇は自分のうちにある。

 母について書くのは難しい。実際、私も何度か母のことを書こうとしたけれど、いつも「かわいそうなお母さん」「かわいそうな私」のどちらかになってしまう。壊れていく母を見ていた日々、書き留めた言葉はやけに感傷的で私はまだ読み返せずにいる。だが、アニー・エルノーが自分の母親の最期を書いた『Je ne suis pas sortie de ma nuit』を読むうちに、気がつけば、あの日々をなぞり返している。感傷を排除した彼女の文体があるからこそ、私は彼女と一緒に過去を振り返ることができるようになるのだ。

 

 

 

近くて遠い父子  『夜の少年』とネトウヨの父

 「好きな人」が「好きだったひと」になってしまうのは悲しい。変わってしまったのは相手の方かもしれないし、自分の方かもしれない。恋には心変わりによる別れがある。だが、家族はそう簡単に別れられない。

 鈴木大介著『ネット右翼になった父』(講談社新書)は、ヘイトに走った父を受け入れられないまま、父が亡くなり、父の足跡を追いかけるノンフィクションだ。なぜ、いつから。いや、そもそもネット右翼の定義とは……と著者は問い続ける。父はもう死んでいるし、息子は自分が生まれる以前の父の若い時を知らない。そして、父の知人に会い、姉や母の話を聞き、いくつもの取材を重ね、仮説と検証を繰り返しながら父に出会いなおし、「父は父だった。父でしかなかった」という結論に達する。

 父がすでにいない以上、著者の想像は想像でしかないのかもしれない。父からの返信はないのだ。だから読者は著者とともに途方に暮れる。一方、フィクションならば、父と息子双方の視点をえることも可能だ。プティマンジャン著『夜の少年』(松本百合子訳、早川書房)は、小説であり、右傾化していくのは息子。それを受け入れられないのは左派の父の側だ。主人公は妻を亡くした男。気がつくと息子は極右団体に入り、ついには左派過激派とのトラブルに巻き込まれ、ひとを殺してしまう。主人公はときに息子を嫌悪し、もうひとりの息子を守ろうとし、どこで育て方を間違ったのかを自問する。「夜はいつも、記憶のなかにいる彼を抹殺しようと努力して過ごした。しかし、彼はいつも目の前にいて、上半身裸で弟を抱きかかえ、ゴム製のプールから飛び出して楽しそうに踊っていた」。犯罪者になっても、息子は息子なのだ。物語は獄中の息子からの手紙によって結ばれている。いや、その手紙は、確かに父と子の結びつきを示すものだが、物語は終わらない。「なぜ」という問いは残るからだ。

 ふたつの作品は、仮説と検証を繰り返すノンフィクションと詩的な文体で描き出されるフィクション、息子から見た父、父から見た息子、さらにはフランスと日本という違いを超え、同じ苦悩をあぶりだす。どれほど近くにいても他者の人生を変えることは難しいということ、どんなに思想や生き方が違っていてもやっぱり嫌いにはなれないし、プールの思い出も、家族で食べたラーメンの思い出も消えはしないということ。死という離別を経て見えてくるもうひとつの姿もあるということ。

 『夜の少年』の原題はCe qu'il faut de nuit。これは、シュペルヴィルの詩「Vivre encore」という詩の冒頭部分、「Ce qu'il faut de nuit/Au-dessus des arbres」から取られている。夜に染まる家族を救おうとしても、夜はなくならない。そこには夜を必要とするひといるからだ。遺された者は、なぜと問いかけながら、昼と夜を繰り返しながら生き続ける。

 

 

 

レーモンド建築にみる翻訳のありかた

 先月、武蔵野市が期間限定で旧赤星鉄馬邸を公開していたので、行ってみた。アントニン・レーモンド設計ということで注目が集まっていたが、実際のところ、設計時のまま残っているのは一部分だけで、GHQの接収、ナミュールノートルダム修道女会への寄贈と所有者が変わるたびに増改築してされてきたものらしい。そして、その変遷こそが「生きている」かのようで私には楽しかった。

 お屋敷やクラシックホテルが好きというとブルジョワ趣味のようだが、そしてその通りかもしれないのだが、私がいちばん惹かれるのは和洋折衷の在り方なのだ。子供の時住んでいた借家がGHQの払い下げ住宅だった。1960年代、杉並区善福寺にはまだそんなものが残っていたのだ。いわゆるアメリカ村ほどおしゃれではない。それでも、水色に塗られた天井板や造りつけのクローゼット、ちょっとした出窓などがあったのを覚えている。写真が残っていないのが残念だが、木桶風呂の横にビデがあり、畳の幅と部屋の大きさがあわず、板間を足して帳尻合わせをした和室もあった。

 この家がすべてを決めたとは思わない。だが、翻訳を仕事とするようになるずっと前から、私のなかには何か洋の東西を結ぶもの、異文化と自国の文化のあいだで折り合いをつけようとする行為に惹かれるものがあった。旧赤星邸にはノエミ・レーモンドがデザインした和服用の箪笥が洋間に溶け込んでいた。のちに増築された修練室には畳敷きの部屋もあった。そこに住むひとのための工夫や改変が私にはどこか懐かしく、愛おしかった。同じことは翻訳にも言える。他国の文化を取り入れ、時代にあわせて訳語を変えながら書いた人と読む人をつなぐ。リフォームを繰り返しながら古典という書物を暮らしのなかに残す。そんな翻訳ができたらいい。

 歴史的建造物という意味では建築時そのものの保存、再現が望ましいことはわかっている。だが、暮らす人に寄り添った変遷もまた、建築物や書物がただの物体ではなく、人の営みを包括する容れものである証なのだろう。古典を訳しなおすたびに、既訳、旧訳の復刊ではだめなのかという思いがよぎるのだが、その答えを見つけたような気がする。